生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

よりどころ

こんばんは。スマホから書いてるから変になるかも。

今日は書きたいことだけ書きます。

 

塩鯖は開放に向かっています。放流してどうする。快方です。

そろそろ退院も見えてきたし、ようやく一山越えたかなって感じです。

 

でもね、ちょっと前、喧嘩になったんですよ。でへへ。それはもちろん私も悪いし、塩鯖も言い過ぎだったんじゃないかって思います。だけど、そーゆーんじゃなかったんだろうって思う。

 

先行きが見えなかったり、思うようにならなかったりしっぱなしだと、やっぱり人の心って折れるんだと思うんですよね。それが普通。折れない人もいるだろうけど、例えばさ、信仰心が厚い人とかね、考えようによっては神様のせいにして原因とか理由を棚上げしてるわけでしてね、違うんだよ。だからって向き合えば強いのかってゆーと、それも違うんだよ。折れるんだよ、弱ってると細く固くなるんだから折れちゃうんだよ。

 

折れたったわ、今。って認めるのが、一番きついことなんだと思うんだよね。

 

そんなとき、うっかり暴言とか、うっかり喧嘩とか、仕方ないよね。でもやりどころのない苛立ちとか、腹立たしさとか、悔しさってあるよね。

 

そういうのを、私は「病が言わせてるんだ」って思うことにしています。

 

……父が言ったんだが。はは。父、さすが伊達に年取ってねぇな。でもそうだよな。うん、そうだよ。

 

この世界は不平等で理不尽でクソだと思うことが多々あります。だけど悔しいほど美しいって思うことがたまにあります。この、たまにの価値がバカでかい。

 

病院で仲良くなった人が、予定より2週間遅くなったけど、明日退院します。すごく嬉しい。

 

塩鯖ももう少しです。

疲れてます(ずっとだね)

思い出したら書き始める。こんばんは。今日も暑いね。電気代が怖いよう。

塩鯖が入院してから早80日でした。長いねえ。

疲れているのは、塩鯖がいないからというのもあるけど、単純に暑いからです。暑い。ともかく暑い。日本は、世界はどうなってしまったんだ。外で働く人たちが蒸発して消えてしまうんじゃないかと思う。だけどまだ7月。梅雨真っ最中。マジかこれ。

前回の記事でえらく悲観的っぽいことを書いているけど、基本的に私は悲観的な人間なので、誇張でも何でもない。だけど楽しいことは楽しいし、笑うこともある。ごくごく普通のおばはんです。もうおばはんです。マジでおばはんです。

ええとね、いろいろ考えたんです。オンライン哲学カフェどうしようかなあって。疲れた頭で行われる判断がどれほどあてになるものか分からないけど、少なくともここんところの私は哲学カフェ関係の投稿を全く見たくなかったんです。なぜかな、哲学は元気があろうとなかろうと、人の心にあるものなのに。

たぶん全力の善意が辛いんです。良かれと思ってやってる、人に優劣はない前提で言ってる(優位だから言ってるじゃない、むしろ劣位だから言ってることのほうが多い)、超他人事で蚊帳の外だから言えてる。そんな風にしか見えなくて、ただただしんどかったです。

そんなことはないって頭では分かってんだけどね、なんだろうなあ、人間の力なんて遠く及ばないものを見続けていると、集団で求める「幸福」に何の価値も見いだせなくなったんだよね。

人は平等じゃない。

全ての発端はあれだろうなあという出来事はあるんだけど、それはまぁ個人攻撃みたいになるから書かないんだけど、いずれにせよサイトは閉じる方向です。すまん、関係者の方々。


世界中にはいい人と悪い人がいて、それは狭い日常でも同じ割合でいい人と悪い人がいるってことで、じゃあ私は人のいいところばかりを見て生きていこうとは全く思わないんですよね。綺麗事だけの日常もきっとつまんないだろうしね。だから目の前にある私の哲学を、ただただ研ぎ澄ませてゆく。できるのはこれぐらいだなって思います。

塩鯖が入院してから、谷崎潤一郎を改めて読んでいた。私は春琴抄が一番好きなんだけど、本当にあれほど美しく、変態的で、愛おしい。それでいて、とても純粋にストイックに「文学」であるんだ。すごいことだ。

いろんな文豪、文人がいた。山頭火のように拾い食いをしても、食っても食わねども生きた人もいれば、森鴎外のようになんでも消毒する怖がりもいて、宮沢賢治のように質素なメシ(ただし大量)で早死にした人もいる。長生きすればよい人生とも限らない、うちの祖母のように。でも、大量調理は味がぶれないのと同じで、長生きすればいいことも悪いこともたくさん経験してごった煮で、たぶん人間っていう限界のある生き物は死ぬ間際に処理しきれずに「おおむね良かったー」と思いながら旅立つんだろうから、そういう意味では長生きしたほうが幸せだと言えるのだと思う。

どっちがいいとかないんだな。でも、少なくとも私は自分が死ぬとき、邪魔にならない程度のお金をちょっと残すぐらいでいいかなと思ってる。

うわ、もう7月よ

 こっちの更新を怠っていました。こんばんは。暑いです。

 塩鯖が入院して早ななじゅう……何日だ? いい加減、塩鯖も病院生活に飽きています。でも病だから仕方ない。私も一人暮らしに飽きています。でも家族だから仕方ない。仕方ないづくしにも慣れてきましたが、一人暮らしの時間は育ってなくて、非常に時間を無駄遣いしている今日この頃です。

 やらねばならないことはたくさんあるんだがね。

 さて。

 私の仕事がなくなる予定です。笑えないわー。でもこれも仕方ないわー。こういう場面に来て初めて介護で仕事をやめざるを得なかった人たちの事を考えました。そして久しぶりに、ずっと座ってるだけじゃんあのおっさん、みたいな人の存在も思い出しました。

 私はしがない派遣社員ではあるけれど、一応自分の仕事っていうものがあります。私だけができる仕事じゃないけどね。替えなんていくらでもいるんだけどね。でも私があの席に座っている以上やるべきことは毎日分あるわけだ。その「私の仕事」って山谷があるものなんだけど、じゃあ仕事がない日は休んでいいかっていうと、そういうわけにはいかないんです。だって仕事だから。そこに行って、座っていることも仕事のうちだから。

 今回の退職の理由は、休みすぎたからですな。決まった時に決まった時間座ってることができていなかったから、当然といえば当然だな。

 そういうことを考えたり、行動したりしているとき、ある人のツイッターを思い出した。父親の介護がようやく終わって(亡くなった)、ちょっと一息ついて(でも実生活はそれほど本稼働している様子ではなかった)、そんな頃合いのツイッターのつぶやき。

 介護の辛さは同じように介護をしている人にしか分からない、というものだった。こう書くと「そりゃそうよね」って思うだろうけど、そういうんじゃなくてね、なかなかグロテスクな黒い思想とか、闇だわね、そういう部分のことよね。

 世の中の不便さや不都合は改善されてゆくべきものかもしれない、そうじゃないかもしれない。今の私には判断できない。少なくとも、人が平等である思想からは、有益なものは生まれると思えない。

 特に悲壮な気持ちなわけでも、被害者ぶるわけでもないけれど、なんか最近、唐突に「人って全く不平等だよなあ」って思って、「あ、そりゃそうだよな。だから奇跡って起こるわけで、だったら私人の奇跡に興味ねえな」って思ったんです。

 最近、恩田陸さんの本を、たぶんすごく久しぶりに読んだ。文学なんて書く気がないんだな、読者をバカにしているのかなって思った。