生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

みんなが傷という勲章を持っている

 おはようございます。昨日はなんだかんだと13時間寝ました。我ながらびっくりです。ぶっ通しではないですが、中年にしてはよく寝たほうじゃないかな。

 さて。

 先日ツイッターで「里親になるってことは、無料で動物がもらえるということではないんですよと、伝えても伝わらない人が何度も何度も応募してくるんでしょうね。」とツイートしたら、「なぜ単身者は不可なのか」とけっこうしつこく聞かれた。

 きっと「なぜ単身者は不可なのか」の理由を彼女は知っているはずだ。動物愛護に関心がある人ならば、たいていの人は一度は聞いたことがあると思う。単身者、高齢者の人生の波に翻弄され、持ち込まれる個体が多いためにそう規定しているところが多いことを。また単身者は留守も多いため動物の異常に気付くことが遅れ、手遅れになるケースも少なくないことも、動物を飼ったことがあれば知っているはずだ。

 しかし彼女はそうした現状を知っていてなお聞きたいことがあるから聞いているのだと思う。多分「単身」に引っかかっているのだと思う。私が「子なし夫婦」や「子供のいない女性」に反応するのと同じじゃないかと、もうこれ、全部憶測だけど、そうじゃないかなと思っている。

 だとしたら、問題は「単身不可」ではない。いくら一般的で正当な理由を聞いても納得できないだろう。

 こういうことは本当に多い。心に傷を負っていて、その傷を刺激する言葉が書かれていることに対して怒りを感じることは本当に多い。怒りでなくとも、悲しさや絶望を感じて、自分が無力な存在だと思うことの多くはこうした理由が多いのだと思う。

 これを溶かしていかないと未来はよくならないと、私は思う。

 氷河期世代に対するニュースを見ていても思う。私はそこにはまっているから特に「氷河期世代は能力がない」と言われているような気持ちになることがある。確かに私も非正規雇用の期間が長かった。けれど私の場合は最初にしこたま砕かれたおかげで、底辺出発の人並み上がりのようなところはある。けれどその人並みもいわゆる「氷河期世代にしては人並み」程度で、バブルやバブル直後組から見れば悲惨なものかもしれない。

 私の母は銀行に勤めていた。あのまま続けていればかなり良いお給料をもらえる立場になっていただろう。しかし若気の至りで(笑)ミカン農家に嫁いで今に至る。母からすれば、手堅いところに勤めあげていれば、食うには困らない生活が遅れるに違いないと思っていただろう。けれど実際娘が妙齢になる今、手堅いところに勤めていられない人も多いし、手堅いところに勤めていても先行きに不安しか感じない人も多い。

 きっと、思っていた未来とは全然違うところに今来ているのだと思う。だとしたらどうかな。私は好きなこと、楽しいことをしたいと思う。

 私たち氷河期世代は、不要なまでに自己価値に疑問を抱かされてきたところはある。けれど、そんな苦しい時代を生き抜いていて、今ここでまだ生きているんだから、強い存在なのだと思う。それぞれが強い存在。だからもっと誇りを持とう。そして不要な外からの評価を捨て去ろう。

 どこかの誰かが言ってること、ニュースが伝えること、どうでもいいなあって思う。それを思えないのは自分の傷に気づいていないから。ここ、傷があるから痛むよ、というところから始めたほうがいい人が、多いんだと思う。冒頭の単身者不可もそう。あなた(私)は傷ついていることを、まず認めたほうが楽だよと、傷つけられるのは弱いからではなくて、自分に嘘をついていないからだから、ある意味では勲章なんだよと、でもその傷をずっと大事に抱えていても前には進めないから、傷を治して前に進もうと、伝えていきたいよねえ。

 めっちゃ支離滅裂だね。そしてまだ眠いね。私何か覚醒するのかな。サイコフレーム出るようになるかな。

今どきの問題

 眠いです、こんにちは。ずっと眠い、どうかしている。

 日曜日から月曜日にかけて、実家に帰っていました。ミカンの話がいろいろありまして。うちのミカンは美味いんですよ本当に。

 それはさておき、道中で妹ちゃんちに寄ってきて、ちょっと話してきた。いわゆるおばさんの世間話。その中で妹ちゃんが「もう最近の学校はひどい。崩壊が多い」と言っていて、やっぱりそろそろ私たちのころとは違うやり方をしたほうが、先生も生徒も楽なんじゃないかなと思った。

 私たちの小学校時代でも、給食を食べきれなくて放課後までぐずぐずと食べさせられたことがトラウマになってる人や、トラウマまでは言わないけど嫌な記憶として残っている人は多いと思う。そこにはいろんな気持ちがあるだろう。結論から言えば、成長とともに食べる量が増えて残すことはなくなったし、同時に給食改革が起こって美味しくなったので、3年生になるころには放課後給食という屈辱を味わわなくてよくなったが、一時的に酷く傷ついた記憶がある。

 45分間座っていられない子にとって「なぜあなたは座っていられないのか」と問われるたびに、私の居残り給食のような気持ちになるんじゃないかと思う。それが毎日、親からも先生からも言われ続けると思うと、なかなか気が滅入る。滅入るどころか嫌になりそうだ。

 先生や親は、その子のことを思って叱る。それを分かっているから子供はできるだけ従おうとするが難しい、苦しい。しかし子供同士は違う。子供同士は「こいつこんな奴だし」で終わる。友達同士で「お前のためを思って言ってるんだ」なんて小学生ぐらいではまず言わないだろう。だから友達同士の結束が私のころは全然違うように思う(硬いとか強いという意味ではなく)。

 もちろん、私たちが子供のころも似たようなところはあった。徒党を組むのが好きな子はいるし、馴染めない子もいるし。だけど今どきの子たちのいじめに関しては、私たちのころよりずっとひどくなっているような気がする。……する?

 もしかすると、私は早々に徒党を組まない選択をしたから、いじめについてのリアルタイムの知識や経験が少ないのかもしれない。例えば「私たち(僕たち)友達だよね。だったらこれもできるよね」といった”踏み絵”や、引っ掛け問題のような”お試し”をされた記憶が、私にはない。けれど今どきの子供たちの間では、けっこう盛んにおこなわれているらしい。

(※旅友ともこういう話題になって、「私、職場いじめとか経験ないからなー」と発言したら「あんためっちゃいじめられてたやんwww」と突っ込まれた。確かにあったが、痛みが薄れて忘れてるめでたさである)。

 こんな状態の友情(本来、踏み絵やお試しを強要するような関係は友情とは言わないが)にいじめが絡むと酷いことしか起こらない。積み木崩しよりもきついなと私は思う。勉強してりゃいいはずの学校生活が、まるで生き残りサバイバルゲーム(頭脳戦)だ。

 で、甥っ子次男の担任の先生は4月からずっとお休みだそうで、教頭先生が担任を務めているそうだ。お休みしている先生は24歳なのでゆとり教育の最後の世代だ。自分たちはゆとり教育で育ってきたのに、先生になったらピチピチパンパンで新しいことばっかりで、なおかつ生徒たちは座ってられない、板書ができない、話を最後まで聞けない、見えないところで子供たちはサバイバルゲーム中などなど超個性豊かである。私はゆとり教育世代ではないが、彼らに対して気の毒に思うところはある。

 子供が賢くなったとか、インターネットがあるから弊害がとか、先生が頼りないから親がうるさいから普通じゃない子が増えたからとか、そんな理由いくつ並べても意味がないんじゃないかと思う。本来の、小学校・中学校の、役割に立ち返るときなんじゃないかな。と、子供のいない私は思うね。

 ついでに。

 ツイッターで話題になっていた「はたらく言葉たち」。私はサイトを見て「なるほど、確かに」と思う言葉が目に付いていいじゃないかと思ったけど、ツイッターでは反対の意味で使われていたのでこそっとツイートを消してきた。余計な火種はないほうがいいと思ったからだ。

 確かに「毎月50万円をもらって毎日生き甲斐のない生活を送るか、30万円だけど仕事に行くのが楽しみで仕方がないという生活と、どっちがいいか ─80代」はイラっとさせるだろうなと思う。毎月30万は今の時代なかなか少ない。阪神電鉄はもっと言葉を選ぶべきだったと思う。

 ちなみに公式サイトでは「人が動くと書いて、はたらく。また傍を楽にするという意味で、はたらく」と書いている。「人の為と書いて偽」ということも記しておく。

 ついでのついでに。

 #Kutoo、あえてツイッターでは書かないけれど私はとても疑問視している。なにかがしっくりとこない、とても。そして、国がどうこういう問題ではないと思う。国会ではもっと有意義な話をしてくれ。

僕らは奇跡でできている

www.ktv.jp

 体調の不安定さと塩鯖の連休ということで、ドラマ一気見。このドラマすごくよかった。

動物行動学を教える大学教授・相河一輝(高橋一生)は、時に人を困らせたり、苛立たせる変わり者。そんな彼の常識や固定概念にとらわれない言動と彼を取り巻く個性豊かな登場人物たちのやり取りが観ているものの心を揺さぶるコミカル・ハートフルドラマ。

 まぁざっくりこの通り。主人公の相河一輝は、いわゆる発達障害なのだろうと思う。けれど劇中で発達障害と明確に表現されることはない。ちょっと変わった人として物語は進んでゆく。それが良い意味で生かされていたと思う。

 ドラマの終盤、要潤くんが演じる先輩の教授が相河くんに言う。

相河先生みたいになれたら幸せだよね。
学力があって、できないことがあっても支えてくれる人がいて。
好きなことだけやってられて。

子供はさ、キラキラした大人に憧れるけど、キラキラした大人なんて、ほんの一握りしかなれない。

なのに学生たちも、相河先生みたいになりたがってる。
なれなかったらどうすんの? 責任とれんの?

相河先生はさ、ここだからいられるんだよ。よそじゃやっていけない。
それわかってる? わかってるなら、人生の成功者みたいな顔して、学生たちを勘違いさせないでほしい。

 このセリフは本当に辛い。夢を、いや自由をあきらめたことがある大人には響くんじゃないかなと思う。本当はこんなこと言いたくはない、けれど相河くんが放つ無垢な光に追い詰められてしまうのだ。自分が諦めたものを全部持っている人に、嫉妬しない人なんていないと思うから。

 相河くんの人生が、人よりも楽だとか、苦しいとか、誰にも決められない。苦労があるとかないとかも、誰にも決められない。同じように、私たちは誰も人生にも口出しなんてできないし、口指しされるべきでもないと思う。だけど、自分の人生だけは自由にすることができる。これは誰にも邪魔されるものではないはずだ。

 それなのに、私たちは見えない枠のなかで生きようとしてしまう。「ちゃんとした大人にならなければ」とか「ちゃんとした母親にならなければ」とかね。なんだその「ちゃんとした〇〇」ってと思う。けれど私ぐらいの年齢(40代ぐらい)の人は思ったことがあるはずだ。おお、これがゆとりか、個性は素晴らしいで肯定されて成長した、我慢も反省も工夫もできない世代かって。やりたくもないのに、ちゃんとしてきたって自負がある人たちは、自分がイヤイヤしてきたことをしなくていい年代を見て、普通に心がざわつくんだと思う。

 発達障害とか、ADHDとか、学習障害とか、実際あんまり関係ないのだろうなと思う。あれも個性だとしてしまえば、いろんなことが楽になるだろうにと思う。席についていられないのも、黒板の文字が書き写せないのも、テストの問題が最後まで読み切れないのも、自分の感情をコントロールできないのも。そんなことでは学級崩壊だ、授業にならないなんて声が上がるだろうが、もうそろそろ戦後のスタイルを本当にやめちゃっていいんだと思うんだよね。学校に行きたくても来られない子(宿題が嫌で逃げたガキではなくてな)はオンライン授業でもいいと思うし、苦手なことがある子はデジタル機器も使ってなんとかクリアしていっていいんじゃないかな。

 努力とか我慢が一切いらないと言いたいわけではないのよ。目標のために努力したり我慢したりすることは絶対に必要よ。だけど、それが自分のためなのかどうかってことを、ちゃんと見極める必要があると思う。もう自分には嘘が付けない時代が来ているんだと思う。

 小学校や中学校っていう場所の本来の姿は、読み書き演算ができるようになることと、いろんな人間がいることと、自分のいろんな面を知るためにあるんだと思う。決して、出来を競うためでも、組体操で親を感動させるためでもない。ましてや、将来いい大学に行って安定した仕事に就くためでもない。そういう思惑がすべてうまくいったとしても、その子が一生悩むことなく生きていくことは、きっとない。その子が人生で一度も転ぶことなく、痛い思いをすることなく、生きることなんてまずできない。

 だったら、怪我して泣きながらにでも、帰ってくるうちになりたいなと思う。泣いてもいい、怒ってもいい、落ち込んでもいい。その人が、その人であり続けられる場所になりたいもんだなと思う。