抱擁、あるいはライスには塩を - 江國香織 -

抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を

 最近、久しぶりに新しい本を読み始めた。それまでは昔の本を再読してばかりだったんだけど、書評のページは見ていて、この本はタイトルだけで読みたくなった。

 改めて本を見ると厚い。この分厚さを結局数時間で読んでしまったのだと思うともったいない。もっと日を分けてゆっくりと読めばよかった。

 柳島家の家族それぞれが出てくる短編からなる長編小説で、年代も人も突然入れ替わる。でもぶれない。それはひとつの家族のことを書いていることに違いがないからだろう。一貫してこの家族の色だ。例え海外にいても、お嫁に行っても。

 それぞれの人物たちが愛おしいと感じる。でもそれ以上に、この家族が愛おしい。どんな時代だって、どんなに裕福であったって、一生懸命に生きていることには違いがないから。境遇がどれだけ恵まれていても、そうでなくても、家族というのは呪いのように物事について同じだけの重みを感じながら生活する。だから慰めあえるのだ。「かわいそうなアレクセイエフ」「みじめなニジンスキー」って。

 家族物を読むとどうしても自分の家族を思ってしまう。母がわたしの年齢のころ、わたしはもう11歳だった。わたしは子供がいない。妹は3歳と半年の子どもがいる。そして、母の母である祖母はもう死んでしまったけれど、たぶんこのぐらいの年齢のころ、一番最初の子どもとは離れ離れになって別の人の子供を産み、畑仕事をしていたはずだ。

 もし、わたしが子供を産んだとしたら、わたしが通り過ぎた年齢を子供も通り過ぎるんだろう。当たり前のことなのにうまく想像できない。それはすごく恐ろしいことにも思えるし、奇跡と呼んでいいほど幸福なことにも思える。その積み重ねが「歴史」と呼ばれるものになることに、どうしてもなじめない。

 家族というか、この物語では「一族」という言い方のほうがしっくりくるけれど、でも結局「家族」のものだ。流ししたの骨や思い煩うことなく愉しく生きよで描かれていた人物と空気感はそのままに、こんなにも壮大な物語に仕上げてしまった。なんということだ。

 なんというか、壮大な物語の前では海や空でさえも太刀打ちできないほど孤独になってしまうってことです。