雪の練習生

雪の練習生

雪の練習生

 長い時間をかけてようやく読了。図書館で本を借りるのはやはり苦手だな。期限があるって思うとゆっくり読めない。

 多和田さんの本は初めて読んだ。そして思った。これは文学ではなくアートだ、と。

 物語は3章からなる。祖母が語り部の「祖母の退化論」、母の物語「詩の接吻」、クヌートが描かれる「北極を想う日」。すみません、世情に疎いものでクヌートさんを知りませんでした。3章のうち、どれが一番好みかというと、2章。そしてどれが一番読みにくかったかというと、それも2章。わたしにとって2章とは、トスカとウルズラの意識が混濁していく様が、甘い芳香を放ちながら腐敗する桃のように美しく写った。

 わたしは本当に歴史も世界情勢も知らないので、西ドイツや東ドイツ、カナダ、ロシア、北極のことはなにもわからない。だからきっと読みきれていない部分がたくさんある。悔しいなぁと思う、と同時に今からでも「知る」ことはできると思う。少しでも知りたい。けれど、歴史の教科書じみたものではなく、物語で知りたい。だって、そのほうがよく分かるもの。

 ある時代に対しての反抗や抵抗をよく描けているのだと思う。でも視点はホッキョクグマだ。ホッキョクグマでありながら、人となんら変わりない。

 母を知らないクヌートを哀れと思うか、様々な動物と会話し、最後まで話し相手に来てくれる相手がいたクヌートを幸福と思うかは、読み手しだいだ。

 たまたまこれを読んでる最中に「ベルリン天使の詩」を見たのだけれど、サーカスとは華々しく煌びやかでいて、とてつもなく反社会的でひからびたところなのだと思った。今の時代は違うかもしれないけれど、恐らく同じぐらいの時代のサーカスの存在とはそういうものだったんじゃないかな。

 生きること、声を出すこと、字を書くこと、イスに座ること、テレビを見ること、すべて日常のことだ。でも、一つ一つに意味を見出すことができたとしたら、わたしは絶望するのだろうか、希望を持つのだろうか。