スプートニクの恋人

スプートニクの恋人

スプートニクの恋人


 旅すがら読み終わりました。何度となく読んでいるので身体に馴染んでしまっている、故にすぐ読み終わってしまうからもったいない。

 さて、どこから語ればいいんだろうか。どこを取ってもわたしにとっては刺激的で斬新で心地よいんだよね。今回は、あちらとこちらの話しでもしようかな。

 女の子として致命的なほど残念なすみれという女性が、ミュウという年上の女性に運命的な恋に落ちる。主人公はKとして表記されるが、多分誰でもない。ただの、普通の学校の先生だ。ただし、彼の少し人と違うところは、哀しいほど哲学的で博識で説明がとても上手い、というところ。

 物語のある意味での「全て」は中盤に書かれている。

 ぼくはこの小さなギリシャの島で、昨日会ったばかりの美しい年上の女性と二人で朝食をとっている。この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはぼくを好きではあるけれど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。

 実存主義演劇の筋みたいだ、とKは言う。本当にそうだ。すべてが行き詰まっている。

 物語は当然進行していくけれど、わたしは実際のところ物語の行方などどうだっていい。この文体、この表現、この比喩がとんでもなく好きなだけだ。そしてどういうわけか、移動中に読むことが多い。

 人はきっと誰しも別人の自分を持っている。気づいている。そのことを物語にすると、こういう形にもなる。そういう物語だ。ある意味では白紙なのかもしれないと思う。まぁ、そういう物語があってもいいんじゃないですか。読む人によって重い意味のある白紙に見える小説って、すごくいい小説ということだよ。

 ミュウは具体的にあちら側とこちら側を経験し、二度と戻れないと思っている。すみれはおそらくあちら側に行ってしまった。Kはずっとあちら側とこちら側を行き来している。わたしにはそう見える。なぜKが行き来しているのか? それは自分自身を語るときに彼が言うからだ。自分のことが分からない、と。そういうことだ。

 あちら側とこちら側を難しく考える必要はないと思う。自分が知っている自分と、自分が知らない自分、果ては自分そのものの存在自体が記号となんら変わらない、けれどなにかの象徴にもなりうるもので、もしかしたら既になっているかもしれない。それだけのことだと思う。

 難しく考えるなら哲学書を開けばいい。小説なんて開かなくていい。

 この物語の一番好きなところはやはりにんじんとのやり取りからラストにかけてのスパートだ。美しい。ただ美しい。そしてすみれがすみれらしくて、死ぬほど好きだ。ノルウェイの森もいいけど、やっぱり春樹の一番は、わたしこれです。