f植物園の巣穴

f植物園の巣穴

f植物園の巣穴


 タイトルの通り「f植物園の巣穴」で起こった数々のこと。この物語は「沼地のある森を抜けて」と同時期にかかれたものだそうです。(家守綺譚の間違い)「沼地のある森を抜けて」は彼女の得意な植物が出てこない。バランスをとるためにこちらの物語が生まれたとどこかで読んだ。なるほど、確かにこれは彼女の得意分野かもしれない。けれど、これほどまで深く厚いものになる。どちらの物語も力強さに圧倒される。

 人の記憶とはあやふやなもので、自分が起こしたことでさえ忘れることがある。それは意図して忘れるのかそうでないのか、それはさして問題にはならないと思う。忘れているには違いない。

 そうやって積み重なってできた記憶の上に自分がいるとしたら、その記憶の足場の危うさに驚愕する。自分の思っている自分とはまったく別の自分がいるのではないだろうか。人にはそう見えているのではないか。そもそも、本当に自分は存在するのだろうか。

 なにもそこまで禅問答する必要はなく本書は進む。千代に会うために。千代。主人公にとって大切な人だ。そのために過去に出向く。過去に出向く前に様々な人が主人公に語りかける。意味が分からない。きっと、誰も意味なんてわからない。誰かが誰かのことなど完全に掌握することはないのと同じだ。

 アイルランドのファンタジーについてしばしば出てくる。ファンタジーの解釈は人それぞれでよいと思うけれど、わたしは愛らしくとも醜くとも、存在自体は人とは別というだけで十分に気持ちが悪いと思っている。日本の妖怪も同じ。だからといって恐怖はない。敵や味方でもない。ただ住む世界が別のもの、それだけだ。人が死んだ途端に菩薩になるようなことのほうが、いくらも信じがたい。

 そして沼地。沼地には水があり、植物がいる。そこからすべてが生まれると思っているわけではない。けれど象徴として驚くほど分かりやすい。その沼地の気持ち悪さ、居心地の良さ、どこかで経験した気がする。母の腹の中だろうか。

 摩訶不思議な事柄が立て続けに起こるけれど、本を読み終わったら納得できる。そして胸が熱くなる。ああ、そうか、そうだったのか。この読後感は「沼地のある森を抜けて」でも感じた安堵だった。