色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ

 惜しみつつ読み終えた。比較がどれほど意味がないことだと分かっていても、どうしてもこれにノルウェイの森を感じずにいられなかった。でもノルウェイの森ほど素っ頓狂な人は出てこなくて、みんなしっかりと地に足のついた36歳になる人たちで(彼女は2つ上だが)、あのノルウェイの森で感じた「放り出された感」がまったくなかった。むしろ地面に耳をつけ、聞いているようだった。

 タイトル通り多崎くんが巡礼するのである。それだけだ。わたしは小説の中のセックスについては特に過大なメタファを求めたりしないし、若い頃のその激動は誰しもの人生になにがしかの影響を与えていると思う。だからこう、そこだけ取り上げてあれこれ言うのはどうかなと思う。

 わたしはエリの語り口がすごく好きだった。距離があって、それはすごく近しいけれどもう手は届かない。それはわたしが36歳になるからわかることなのか、そうでないことなのか、定かではない。でもエリが幸福でいてくれて、良かったとおもう。もちろん、アカもアオもしっかりと根を張って生きていて嬉しい。

 スプートニクの恋人で「温かい血が流れる必要がある」という表現がある。それは儀式的なものだ。通過儀礼に近いものだと認識している。人は一生のうち変化を拒否することは出来ない。そのために儀式をする人もいれば巡礼をする人もいる。あるいは仕事を辞めちゃう人もいる(はーい)。人には必ずここだというポイントがあって、いくら目を背け続けていてもそれは昇華されない限り付きまとうのだ。それから開放されるのが幸福か、それと共に過ごすのが幸福か、それは人それぞれじゃないかな。

 電車の描写がたくさんある。わたしは電車に興味がない。けれど彼の目(多崎)から語られる電車や駅は機能的で素晴らしく無慈悲だ。そこはどうしてもアンダーグラウンドの経験を見てしまう。けれどそれはなんの役にも立たないし、なんの得にもならない。人は必要なことは必要なだけ必ず与えられているのだ。それに気づいて利用するか、使うか、温めるか、気づかずに人を羨むだけか。それもまた人それぞれだとわたしは思う。

 ああ、読み終わっちゃった。哀しい。でも知ってる? 二度目の読後って一度しか味わえないの。一度目の読後と同じでね。そう、あと一回ある。楽しみ。