牧野富太郎自叙伝

牧野富太郎自叙伝 (講談社学術文庫)

牧野富太郎自叙伝 (講談社学術文庫)


 この本を読んでいると、向田邦子さんのエッセイの温度を気持ち上げたような、そんなぬくもりを感じる。学があり、上品で、ちょっと間抜けで、愛しいと思わせる人だ。

 自叙伝なんて都合のいいように書くものさ、と思っていた。人によってはそうだ。でもこの自叙伝は違った。自分のことでさえ、彼が植物に接するように、ある部分すごく冷徹に見ているのだ。

 人にはたくさんの「面」がある。娘さんが読んだら「お父さん、ちょっといい風に書きすぎよ」と言うかもしれない。お弟子さんが読んだら「謙りすぎですよ富太郎さん」と言うかもしれない。でも、彼から見た彼は、これであったのか。なんという慎ましさ、そして元気の良さ。

 年老いてから執筆したもののようで、過去の話が多い。けれど武勇伝でも恨み言でもない、ただそのときその場で起こったことを、彼なりに「哀しかった」とか「嬉しかった」と書いている。素直な人なのだろうと思う。老いるということは身体機能が低下するということだ。わたしはまだ経験していないが、足腰に錘をつけて歩くようなものと聞いたことがある。しかし富太郎さんは「いやまだわたしは大丈夫だ。だってご飯もたくさん食べるしよく眠るし、草花の細かなところもよく見える」と記していらっしゃる。なんかもうそれだけで泣けてくるんですけど。強がりのおじいちゃん、昨日読んだ本ではたくさんの写真があって、90代になってなお筆を持ち、書物に埋もれながら(きっと借りたまま返し損ねた本ばっかりだったんだろうけど)、植物に向かっている。

 奥様が病気を患ったとき、奥様の名前を植物につけたそうだ。これで永遠となる、となんとロマンチストなことだろう。星の名前でよく例に出されるけどピンとこなかった。これを読んだらじわりときた。わたしはどうも自分勝手な生き物のようです。身近に感じられなければ、なかったも同じなんだなあ。

 彼が植物学者でなければ、きっとその花の向こうに「生」を見ていたことだろう。姥捨て山で背負われた母は自分の行き先ではなく今まで生きてきた「生」に向かっていたと書いてあったのは「生涯現役」での隆明さんの言葉。普通の人はそうだと思う。しかし彼は純粋に花に向かっていた。見返りなど求めなかった。恐らくその情熱を「注いでいる」なんて意識もなかったんじゃないかと思う。実際は生死も含めて様々なものが見えていた人だろう。でも提出してきた文章がこれなのだ。もう大ファンです。あーあの植物園に住みたい。住みたいなあ。

 やはり、人に関しては調べたい人自身が書いたものを読むのが一番いいな、と思った。