ブラフマンの埋葬

ブラフマンの埋葬

ブラフマンの埋葬

サンスクリット語で「謎」を意味する名前を与えられた、愛すべき生き物と触れ合い、見守りつづけたひと夏の物語。

 小川洋子さんの小説は、いつも生と死が同じ強弱で流れているように思う。ブラフマンと名付けられた不思議な生き物が愛らしく、またはのびのびと生を謳歌しているとき、同時に古い石棺の深さの闇が増す。私にはそう見えた。同時に、雑貨屋の娘が色を強くするとき、ブラフマンは精一杯色あせた。

 芸術家たちが集まる〈創作者の家〉の世話をする主人公は、誰の領域も侵略することなく、ただそこで「世話」をするということが人生だった。恐らくそのまま一生を終えるだろう。碑文彫刻師が「才能があるわけじゃない」と言ったように、それはある人から見れば才能で、本人にしてみれば「遺伝子として引き継がれたもの」なだけの、無価値なもの。

 主人公の才能は「あらゆる来客者を受け入れる」ことができ、なおかつ「世話をし、特別に扱っているように接する」こともできる、深い深い思慮と思いやりだと思う。それはブラフマンを受け止める泉の如く美しく、そして一方的に傷つく。傷は自然に癒えるため、ケアしていなかったのではないかと思う。だから誰かは分からない家族写真を部屋に飾る。ささやかな「ケア」だ。

 ブラフマンは結局どのような動物か明かされない。けれど私はブラフマンは主人公の一部、主人公の生涯のバランスを取るために生み出された生き物のように思う。それは突然やってきて、当然のように一緒に生活し、唐突に消えた。失った、と書きたくないのは、ブラフマンブラフマンであり、主人公ではないからだ。ブラフマンへの尊敬を込めて「消えた」としたい。

 あらゆるものにはすべて多面性があり、同時に平面化もできる。可能性の可能性、あるいは無価値の無価値さなど宇宙レベルの想像をしてしまう、短い小説。

 最後まで読者を裏切ることなく真摯に描き出されたこの風景、彼らのひと夏は、小川さんの心の風景の断片だと思っておこう。