生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

過ぎ去りし誕生日

 今年も例外なく誕生日はやってきまして、ひとつ年をとりました。少し前。おはようございます。誕生日だからといってなにがどうだとかねぇよこの年になってさあ、というのはけっこう残念な考え方です。だって年に一度しかないんだからせめて記憶に残る日になればいいなと思うじゃないですか。できれば毎年思い出せるぐらいのインパクトで。

 とはいえ、誕生日とて一年のうちの「ある一日」で、そういえばいしいしんじさんの「ある一日」まだ読んでないよと思いつつ、思い出してこれを書いているんですけども。積読も化石になっちゃいそうです。化石。化石といえば、過去のいろんなものが石になっちゃったあれでしょ。

だいたい過去のものについての考察なんていつぐらいのことか理論をいくら並べて順番に立証させたとしても、絶対にぬぐいきれないうやむやがあって、そのうやむやは科学とか技術とかでいくら明確にしたところで、やっぱりうやむやなんですよ。うやむやでいいことなんてたくさんあるんですよ。

なんて御託を並べながらやっぱり紫陽花に奪われる6月でした。いつからこんなに紫陽花好きになったんだと思うほど今年は紫陽花ばかり見ている気がする。そして来年も「いつからこんなに」と思いつつ振り返って「ずっとやんけ」と自分に突っ込みいれるんだなあと、

薄らぼんやり、梅雨も明けない蒸し暑い朝に考えるんだろうと思う。あ、この横の写真は塩鯖ダーリンが撮りました。私が撮ったら白飛びするので「あきませんわ、カメラが悪い」と言ったら同じカメラで撮りました。道具のせいにしてはいけません。一番上の写真は私が撮りましたが

被写体は塩鯖ダーリンです。写真と文章がぜんぜん一致していないのは、特にワザも使わず横一列に写真を列挙してみたかったからです。なんていうか、こういう時間の流れだったんだもん。そしてそれを思い出しているからこうなんだもの。写真と文章のコラボレーションなんてビジュアルブックに任せればいいのだ。
ちなみに洞窟は連れて行ってもらいました。模造刀をはじめて触りました。重かった。そして「シャキーン」ができなかった。私、戦乱の世に生まれたら「刀を抜くまで待たれよ」って言わなきゃいけない。命が危ない。よかった今の私は現代に生まれていて。

洞窟の中は暗くて涼しくて水があって音が響いて、そしてずっとどこからか水音が聞こえてきて、ここで眠ったらさぞかし気持ちよかろうね、という場所でした。私は洞窟育ちだったのかもしれません。ずっと昔、弥生時代ぐらいね。だからあの土器は私が使ったものかもしれない、と思うと、

過去の私こんにちはなのかな、と思う。自然が作るいろいろは、人間が作るいろいろより精巧ではないかもしれない。でもこれぐらいの堂々としたダイナミックさを人間が作り出せるかというと、ムリだと思う。隅々まで水が滲みて満遍なく撫で回して石灰を(合ってるのかしら)溶かして風に吹かれてだから、

全部に神経がいきわたっているようなもので、人間はそこまで繊細になれるかなと思ったらムリだと思うから、ね。ただ人間は美味しいとか嬉しいとか感じることができるので、私はこのプレートで食べる塩鯖ダーリンが準備してくれるトーストが好きです。まる。