生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

脳みそは誤解し続けるらしい

 福山嫌いを豪語しているけれど、物理に罪はないということで。いまさらかよ! いまさらですよ! 物理の問題じゃないことまで解決するなんてこの人めちゃめちゃ人間らしい人間だなあと思う。人間嫌いは自分嫌い。よって湯川さんは人間嫌いじゃないと思う。ただ、人間より物理が好きなだけ。ニュートンのくだりはすごく好きだった。

キッチン

キッチン

 こういう表現をするとき、やはり吉本ばななのキッチンの雄一が思い起こされるわけで、複雑、の概念を考えたりする。分岐が多ければ多いほど複雑なのではなくて、理解しがたい方向性を向いたときに、なれない道を通るようなものだから「複雑だなあ」と思う脳みその誤解なんだろうなあと思う。雄一はえり子さんが「とにかく優しい子にしたくて」育てた「手落ちのある」子だが、彼は時に王子様に、時に腹が立つほど空気が読めない人になるんだもんね。

 脳を科学したとしても結局のところ乗っかってる脳みそをいじれるわけじゃないので、すべては起こってしまった後の推測にしかすぎない。予測が当たると人は感動したり感心したりするのに、後追いは釈然としない気持ちになる。本当は予測が当たった時点で「身構える」という心理が働いてそれを隠すために感動や感心が表れるのかもしれないが、そもそもこの発想がずいぶんとひねくれている気がしなくもない。邪推、というやつ。

アルジャーノンに花束を

アルジャーノンに花束を

 邪推というのは黒い気持ちも白い気持ちも入り乱れたマーブル模様だと思う。黒一色だったら「よこしま」にならないから。そういえば、ダニエル・キイスさんは亡くなってしまったんだ。ビリー・ミリガンは多重人格なので読んでいて寂しくならないから好きだった。この発想が寂しいっちゅうねん。チャーリーと一緒にアルジャーノンに花束を捧げたい。ブラフマンにも同じように思う。

 小説とは不思議だなあと思う。ドラマではどれだけ熱狂しても好きになっても、こんな気持ちにならないもんなあ。これもきっと「脳みその誤解」で、人は死ぬまで誤解し続けるのだと思う。ハリネズミのジレンマ