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月の裏側で待ってる


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 雑多です。こんにちは。まるで昼間からビールを飲み飲み電子機器をいじって遊んでいるようです。ビールの缶は昨日の残りです。片付けろし。
 
「これはあったら嬉しいし、作るのもきっと楽しいはず」と思うものは多くて、実際にやってみて「ナイスアイデア、GJ俺様」と思うことは少ないです。だいたいなんでも楽しいを通り越して苦しいになるか、あるいは私の「楽しい」の許容量が人よりも少ないがためにすぐ「苦しい」になるんです。妙に凝るのが全体的に問題だと思うんだ。でも、でも、どうせなら、残るものは納得のいくものであって欲しいじゃないか。
 
 フォトブック作りがまさにそれで、次が三冊目になるのだけども、写真を発掘するのは本棚の整理に似ていて、あれもこれも引っ張り出しては進まないという状況が続くんです。
 
 しかしね、写真というのは今しかないわけで、その鮮度はどんどん落ちていくだけで、いくらデジタルで色鮮やかに残していたとしても、記憶は霞んでくるわけだ。ならば記憶が新鮮なうちに閉じ込めないと「過去フォトブック」になってしまう。それはそれでよいかもしれないが、本当に残したいものはそのときの瞬間だよなと思ったら、やるっきゃねえんです。
 
 私の家にも私のアルバムがあるが、多忙極まりなかったはずの母がよくそれを作っていたなと思う。楽しさ、嬉しさ、わくわく、どきどきの勢いで作ったのかもしれないけど、若さの勢いもあったのかもしれない。どちらにせよ、存在に感謝。
 
 考える時間が多いというのは構成を練れたり選別に時間をかけられたり、と良いことも多い反面、その出来事、近辺の出来事、あのときの風景や言葉なんかが全部思い出されて、その出来事そのものへの深度が深まって、比例するように鮮度が落ちていきそうで、まぁ、だいたいこんなことを考える余裕があるぐらいなんだから、鮮度も深度も変わらないと思います。
 
 写真の存在感はずいぶんと変わったと思う。できることがずいぶん増えた。写真にするのもすぐだ。待つ時間が減った分、わくわく、どきどきの維持・持続が、我々人間にとっては不得意なものになったのではないかな、とときどき思う。思い出の残し方は変わらないのに、過程は多様化し時間短縮されたせいで、思いでそのものの保管行為そのものが違うものになった気がする。
 
 それでも「アルバム」にしようと思ったのは、やはり自分のアルバム、塩鯖ダーリンのアルバムの存在に感謝したからだろうと思う。だから一冊できるごとに小さく感動し、ひっそりと見返していたりする。作っている最中、だいたいこんなことを考えていることも含めて。だから手放しの感動じゃないんだけど。未来の心配とかもしちゃってるし。
 
 でも、そもそも、手放しに期待「だけ」しか持たない感性であれば、裏側に感動することはないと思うけれど。どっちがいいとか悪いとかではなくてね。
 
 さ、昼飯にしよ。