生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

YOUはなにしに運動会に?

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 どうやら連日話題になっているらしいこれ、今日帰り道にニュースで見かけて衝撃的だったんです。リンクは今年7月の記事だそうだけど、今日の夕方ニュースでもやってたんです。こんばんは。すこぶる調子が悪いです。たぶん頭の調子が悪い。

 組み体操は私の幼少時代もやったけど、10段ピラミッドとかやる人数がいなかったのでやってない。心底良かったと思うと同時に、やってる子たちに同情する。上は怖いし下は痛いし、なんのためやってんだこれ、って絶対思う。

「どう考えても安全性を確保できない」を理由に組み体操を中止した校長先生のいる学校では、組み体操がないことに対して不満(抗議ではなくてほっとした)があったそう。その声は「盛り上がらない」「最後の運動会なのに悔しい」「毎年すごくなっていくのが楽しみだった。今年は感動できない」なんだって。私はこれにびっくりした。この人たちにとって運動会ってなんなんだろう。そしてこれだけ止めるべきムードの中でもこういうことを言う人もいるんだなあと、ちょっとぞっとした。

 でもいろんな人がいる。子供だっていろんな子がいる。やりたくない子もいればやりたい子もいる。だからもういっそやりたい子がやればいいじゃん、なんて、さすがにそこまで無責任には思わないけど、じゃあ昔どおりの「すごくない」程度でやればいいんじゃないかな。去年よりすごくならなきゃって思うことが間違いなんじゃないかな。ショーじゃないんだし。こんな消極的な提案は却下されるかな。

 でも事実、止めるべきムードの中で私も「(私情のもつれも含め)止めるべき」と思っていたけど、やりたい子たちがいて、悔しい思いをしているんだなと思うと、腹立たしい気持ちはなくなった。いやでも組み体操じゃなくてもいいよねえ、きっと。根底に流れる大仰なスポ根が伝承されている事実がちょっと怖い。

 私は本当に運動会が嫌いだったから、あれは何のためにあるのか本当に真剣に考えたことがある。出た答えはこれ。「自分の精一杯を出し切るという経験をする場所」「チーム一丸となって運動会というものを作る場所」だ。去年よりすごくとか、一番じゃないと意味がない、とか、ないんだと思ってる。が、後者も根強く正義として残っているとは認識していますが。これは永遠に、戦争と平和並みの難題であり、これが解決するより先に人類は木星に到着しそうだなと思うけどね。

 タイトルに戻って、私の運動会・体育祭は惨憺たるものだったので、両親は「参加賞を見に」来てたんだと思います。ああそうだ、前後がいないどげっぴだったので、写真さえうまく撮れれば「一等みたいだ!」って言ってた気が。その腕を妹たち(ヤツらは運動ができる)に使ったんだと思います。そして私は。私はまだ運動会って観覧しに行ってないので想像だけど、たぶん「お弁当を食べに」行くんだと思う。万が一行くことになれば。あ、これ私がする側だったときと同じだ。何度も何度も繰り返さなくていいかな、運動場でのお弁当、と思うと切なくなった。秋ですね。

 楽しいだけが思い出じゃないが、怪我や後遺症はいらんと思います。