教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)
- 作者: 内田良
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/06/17
- メディア: 新書
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これ、貼っとかないと忘れてた。こんばんはー! めんどいことを言いたくはない!
教育する相手がいないのに教育に目が行くのは甥っ子の話を聞くからなのか、子無しアラフォで卑屈になっているからか、どちらでも良いのですが、ついつい見てしまいます。一応大人としての責務と意見を持つべきところという認識はあるんです。
今日テレビでみたのは褒め言葉のシャワー。これはかなりゾッとしました。ああ、正直に発言するのは楽だなぁ。
クラス全員で褒め倒すことによって褒められた子は失っていた自信を取り戻し、やがて学級全員が一丸となれるようです。ここでは自信を失った子は金髪でいかにもヤンチャな子供だったのが、校則に従った子になってた。た、単純すぎて理解できぬ。
先生は生徒のいい所を丁寧に汲み取って褒める。どんな些細なことでも褒める。とにかく褒めるんだと。
褒められて嫌な気になるのは随分ひねくれて拗ねてると思うけど、あまりに些細なことばっかり褒められると「そこしかないのか自分、かっこ悪い」と感じて落ち込むかバカにされてると感じるけどな。
成長とは、その結果がわかりやすさだけではなく、複雑でややこしくて面倒だと思ってる。なおかつ個人差が激しくあるもの。その面倒くささに丁寧に付き合ってくれる大人がいると比較的素直に育つと思う。ただ、面倒くさいので忙しい大人ばかりだと丁寧なケアなんて望めないけど、それくらい子供は理解してるからセルフケアする。そのセルフケアが鬱屈した風に見えたり、ひねくれてたり、あるいは板に並べたように扁平かもしれない。学校時代の子供の差などその程度だと思う。
もともと人間が持ってる当たり前の感情、それがポジティブであってもネガティブであっても、持ってるものを駆使してその時期をやりくりするのが思春期だから、どっちに出てても否定する理由にはならないと思う。最近のネガティブ排除を子供に押し付けるのはどうかしら。
実際、ヤンチャな子と真面目な子でも友達同士ってのもあること。接点さえ見つけたら友達になれるのが「子供」のいい所。逆に接点もないのに友達になんてならなくていい。友達何人いたって救いにならないことだってたくさんあるということは、動物として知ってていいこと。子供が大人の概念の目で見ることをするのは、あまりにも大人が口出ししすぎてるからに思える。
鬱屈した青春を過ごせば、大人になってバカなことをしないとは思いませんよ。人はいつかどっかでバカなことをして、その瞬間が子供と呼べない時期(青春じゃなかったら)ちょっと恥ずかしいだけじゃないかしら。
本当に手に負えないのは汚れた血みたいなもの、呪いという言葉は怖いから使いたくないけど、呪いのように染み着いて取れないもの、大人子供関係なく排除したくなるものだろうと思う。
単純さが悪いことだとは思わない。実直さは美徳だ。でも、単純なところが欠如しているから非行に走るから単純なところを補おうというのは違うと思う。成長という過程をバカにしてはいけない。彼らは彼らなりに学んでいる、それが成長だと私は思う。
ま、それができないまま大人になるから問題になってんだろうけど、本当かなぁ。
先日、塩鯖とカラオケに行った。私個人では聞くことがない尾崎豊を、めっちゃ久しぶりに聞いた。怒りまくってる歌の中の思春期の尾崎。先生に、真面目な同級生に、同じ顔をした大人たちに。
リアルタイムの人ではなかったけれど、学生時代に聞いた尾崎は「大人と折り合いつけて頑張る真面目をバカにしてるなぁ」と思ったもんです。
塩鯖は尾崎ファンではなく長渕派です。矢沢も歌います。家ではモノマネもします。多芸です。