生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

美味しい料理に必要なのは、思いやりという名のひと手間か

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 一度見た深夜食堂をもう一度見ている。悲しーい主題歌がたまらない、出てくる料理もごくごく普通の、丁寧に作られたジャンクに近いものばかり。出てくる人たちも普通の中年ばかり。最高です。孤高のグルメの主人公がやくざの兄貴で出ています。

 この暑さで、熱中症になった人を2名見た。一人は一緒にお仕事するかっこええ女性社長で、一人は塩鯖。二人とも共通していたのは「頭痛」。かっこええ社長は「夏のスイカに塩っていうのは熱中症対策にもなるのよ!!」と言っていた。普段は塩分を控えろと言われていても、夏の間はそうも言うてられんらしい。

 塩鯖はけっこう気を付けていて、日中梅干を食べたり、おにぎりも梅干しだったり、水分はコーヒーをやめてスポーツドリンクやハーブティー(砂糖とクエン酸が入っているのでジュースだな)だったりしたけれど、それでも罹患した。先のスイカに塩ではもう間に合わないのか? と思ったけれど、スイカを昔よりも食べていないんだから圧倒的に不足しているんだろう。

 今年、スイカ高くないっすか? 二回しか食べてないよ。

 昔の人の知恵が理にかなっていることはよくある。そうではないこともある(スイカと天ぷらとか)。情報化社会になっても割合は変わらないように思う。だから体感として「これいいね」と思ったことは続ければいいんだと思う。というわけで、私の夏は冷かけです。本当に今年はどこでも食べられるのでありがたい。しょっぱい冷たい出汁が美味い。

 深夜食堂に出てくるご飯は、赤いタコさんウィンナーや猫まんまやポテサラや甘い卵焼きだ。科学的にこの美味しさは~といった世界とはまるで遠い。卵焼きは一度卵をスクランブルにするとふわっと仕上がるとか、お茶漬けのお茶や出汁は食べる直前にかけるといいとか、ただちょっと心が満足する、ほんの少しの手間(ヒント)があるだけだ。

 その手間とは、食べる人へのちょっとした思いやりだろうと思う。

 食べ物のそばには物語がある。一人メシは寡黙な物語がある。半田そうめんにはスダチが合う。

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 先日の引きこもり宣言から一週間。そろそろ外に出るかな。まずは今宵のポテトサラダを作る準備をして、仕事しよ。ポテサラの玉ねぎは芋が熱いうちに、マヨネーズは芋が冷めてから。時間がかかるが、この手間がそばにいてくれる塩鯖への思いやり。

 今日も暑いなあ。でもせっかく夏なんでエアコンなしで窓開けて仕事。平日が冷え冷えのエアコンの下で仕事してるから、家でやるときぐらいは夏を感じよう。



ここから愚痴。

 世の中には出来事を湾曲して受け止める人がいて、時折そういう人と誰かが「そうじゃん!」「いやそうじゃないじゃん!」とやりあったりしているのを見るけれど、自分が渦中の人物になる日が来るとは思わなかった。実際は見えるところで攻撃されるわけではないので、痛くも痒くもないんだけど。

 ことの発端は副業の委託先が「支払い困難」という状態であるから、ならば委託し続けることは双方負担だろうと思って引き上げた、ただそれだけのつもりだった。だって委託し続けたら私はただ働きだし、委託先は未払い続きになるんだし。でもそこが負担だと思うのは私の感性がそう言っただけで、相手はそういう状態でも委託され続けたほうが良かったようだ。

 感性(受け止め方と表現の仕方)というか、常識というか、双方の違いがこれかぁ、とも思う。だからお前の人間関係は切れぎれだ、と言われればその通り。でも、私、情でわだかまりを消してやれって言われても、消せる自信はないから、この選択で正しかったと思う。

 思いやりと自己満足って区切りが良くわからない。今回の私の判断は、大なり小なり私の思いやりでもあったと思っていた。でもいろいろ考えて、今はただの自己満足や保身だったのかも、とも思っている。そもそもの常識、基盤、ベースとなる部分が違うんであれば、正確な意味では言葉が通じていなかったのかもしれないとも思う。ポテサラのキュウリ、私は塩をして揉まない。揉むとキュウリが割れるから。でもそういうのいらない人もいる。そういうことかなと思っておく。