生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

気にしすぎ社会?

 水曜はお休みの日。でも塩鯖は出かける日。余裕で寝過ごしました。うひゃひゃー。初めて寝過ごしたよ。血の気が引いたよ。

 水曜日は朝のんびりしています。だいたいNHK朝の連ドラを見て、そのあとのニュースをちょろっと見ます。今日のタイトルはそのときやってたやつです。

 気にしすぎ社会で筆頭に上がるのが「妊婦マーク」です。私ももうおばちゃんになりましたし、だから当然子供がいるように勘違いされて(笑・逆に楽だっつー話)社会からの風当たりがゼロに近しい毎日を送っていると、「妊婦マーク? つけろつけろ! 楽な身体じゃないだろう。頑張って少子化に歯止めをかけてくれよ」と思います。むしろそういう人に嫌がらせする人、いやだもう信じられない。なんてね。

 逆マタされたことがあると、どうしても好意的にみられない時期はありました。でもだからといってあえて嫌がらせとかしません。それに、実際にした人もされた人も、おそらくそれほどいないんじゃないかと思います。

 ということを番組でも伝えていました。ネットの拡散でビビっちゃうんだと。でも万が一されたら、という思いがマークを付けるのを踏みとどまらせるんだと。

 あと、年賀状の家族写真も幸せアピール? って思われる? って考えて、顔がはっきり写ってないのにするとか言ってました。それ意味なくね? むしろもやっとするわ。

 これについては「今更(ハッ)」ですよねー。でも遠慮なく送ってくる親友Kちゃんがいるので慣れすぎるほど慣れたんですけど。そもそも「幸せアピール?」なんて思わないし。いや、うちも年々成長するモンステラを毎年映してもいいんだけど、そろそろ部屋全体が写るぐらい引かないと全容が見えないんですけどね。誰もいらんよね、そんなもの。

 ネットで叩く心理についての記事がすげー読まれてるって書きましたけど、そもそもこのブログの訪問者数なんて微々たるものです。だからすげーの度合いが村レベルです。そんな村レベルすげー記事もそろそろ賞味期限が切れそうかなって思いました。というのは番組で「叩く人について統計を取った結果」を発表してたからです。

 アンケートだし、匿名だし、ってことで根拠が怪しいかもしれませんが、ネットで叩いたり煽ったりしたことがある人というのは、全体の1パーセント程度だそうです。その1パーセントは「社会である程度の地位がある」「男性」で、なぜそうしたかというと「裏切られたと感じた」とか「許せないと思った」という「正義感」からだそうです。

 ほっほー。正義感にしては、お粗末なレベルの言葉が多いような気がしますけど、ね。それはさておき、正義感かぁーって思っちゃいました。その正義感の裏側にあるのって、ストレスだよねーって。

 ストレスってもう免罪符にならない言葉ですね。ストレスの逃がし方を模索しているくらいの年齢であれば、第二の中二病(鬱)っぽくなる時期もありますが、ある程度の社会経験を積んで、それなりのポストについていれば、それなりに逃がし方ぐらい学んでいるもんだと思います。って、自分が超余裕だから言えることだとは思うんですけど、それを踏まえても経験は積んでいると感じてますし。辺りかまわず当たり散らすことができないから、自分が許せないと思ったことを指摘することで正してやったと思うのは、その人の何もかもを、特に品格や徳ってやつを、下げる行為だと思います。

 でも、それを受ける側のメンタルもかなりこんにゃく化しているように感じます。100の肯定は1の否定で吹き飛ぶって言ってた。言ってることはすごくよくわかる。でも「そうだよね」って言いたくないぐらいがっかりする。

 もっと自分を信じよう。そして100の肯定を信じよう。

 私はフォローやいいねやコメントくれる人は大好きです。だけど、それによって自分が全肯定された気持ちにはならない。画面の向こうにいる、血が通った誰か、もしかしたら今日嫌なことがあったかもしれない、ほくほくしているかもしれない誰かであって、敵でも味方でもない。常にそう思ってこれ書いています。

 もっと重きを置いていることは「パレートの法則」と「2が両手からあふれないこと」です。大事にしたいと思っているものは、絶対に大事にするんだよ、例外なんてないんだよ、と自分に言い聞かせています。だからもう人間関係で悩まなくなったし、失敗だって思うことに出くわさなくなった。おばさんになったなあって、良い意味で思います。いやはや、年を取るって楽しいなあ。

 今日はこれにて。炎上したらどうしよう(村レベルアクセス数だからきっと大丈夫だけど)。誰も怒らせるつもりはありません。