生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

哲学カフェに行ってきた話

 相変わらず、意味の分からないアクセスが来ていますね。なんですかiPhoneでここをしこたま見ているあなた!! そんなおもろいこと書いてないだろうが!! 陰でひっそり、誰の受けも狙わないものをせっせと書くのが楽しいのです。ちなみにここ、月間1000アクセスですってよ。もうね、主に一人の人だから怖いよね。

 あ、そうそう、先日3%と91Daysを見終わって、そろそろヒンターランドも見終わるんですよ。ブラックミラーは最新ものまでは見終わっている。こんなだから、海外ドラマ専用のブログでもやろうかと思ったりはしてました。広く浅く網羅するサイトじゃないっていうのがポイントです。

 さて、先日哲学カフェに行ってきました。尾道で開催されたものです。美味しいコーヒーを出してくれるカフェで哲学談義。12名の人が集まりました。

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 今回は初めましての方も多かったそうですが、何を隠そう私も初めましてでした。だから膝がガクガク笑ってました。すみません、小心者なんです。

 テーマは「私たち人類は、進歩しているのか?」というものでした。私の答えはもう出しているんだけど、答えを出すとか出さないとかじゃなくて、私としてはいろんな人がどんなことを考えたのかを聞く場、として楽しみでした。だってそんなこと日常で考えないじゃん。進歩だろうと退化だろうと、生きてるものは生きてるんだし。

 ちなみに、私のテーマに対する考えはこんな感じ。

私は、神的視点から考えると、退化する部分もあるだろうと思っています。このまま人間は進歩を続けていくと、どんどん卵に戻っていくような、2001年宇宙の旅スターチャイルド的なものになるんだと信じています。退化なのか進歩なのかわかんない。だけど、私個人としては常に進歩し続けていると思うし、そうであると思いたい。

端的な言葉で表現すると、「今日の私より明日の私のほうが優れていると思いたい」ということです。なんかダサくてかっこ悪い(笑)でも事実こう思って毎日過ごしています。

昨日できたことが今日はできなくなるかもしれない。だけど昨日の私ができなかったことを、今日の私はやってる、みたいなね。そういうものの積み重ねで、人生はスパイラル状に上ってゆき、私が死ぬときには、生まれたときの私ではなくなっている、同時に生まれたときの私に戻っている。精神的な死とは、「私」という人生を「打ち立てる」ことでであってほしいな、と思っています。

「進歩は良いことか?」ということについては、私は基本的に良し悪しを判断しない(好き嫌いは当然判断するけど)ようにしているので、いいも悪いもないんじゃないか? って思います。誰かにとって良いものは、誰かにとって悪いものだってこと、往々にしてあることだしね。自分が心配することは、自分の両手の範囲だけって決めてますから。

 哲学カフェそのものはとても有意義な時間だったし、面白かったし、興味深いものでした。進行役の女性はとても賢いんでしょうね。話を聞きながら、まとめて、疑問や矛盾は良いタイミングで指摘する。それがあるから混乱せず、また混戦せずに会話が進んでいくんだもの。

 いるだろうなーと思ってたら、やっぱりいたー!! というタイプの意見もあり。自分の問題を人類の問題に置き換えるタイプの言い方をする人ね。それ自体は非難も否定もしないんだけど、問題を本気で解決する気はないんだろうなあって思う。だってすっごいバカでかい問題にしちゃって「どうしようもないねえ」的なところに落とすのってそういうことじゃない? 

 私は人ひとりが抱えられるだけの問題を抱えていけばいいと思っているし、人類の為に憂えたり行動を起こしたりする人がいたとしても、地球の半分を、いや1/4でも一国でもいいわ、「よいしょ」と動かせるわけじゃないだろう? じゃあ自分のできることをできる範囲でできる限りやるのが誠実ってもんじゃないか? って思ってますんでね。

 総じて「より良くするための行動を進歩と呼ぶ」という意識のもとでやってたと思うんだけど、その「より良い」の多くが「争いのない世界」を指していたことにも驚き。そんなもん出来ると思ってんのか(いや、相当難しいという認識はみんなある)。私はけっこう雑なので、オリンピック選手が「金メダルとりたい!」と思うことと、テロリストが「あの国には負けたくない!」と思うのとの、エネルギーの違いなんて分からんので一緒にするんです。エネルギーの発散の方向ややり方が違うだけで、エネルギーそのものは一緒でしょ。

 闘争というエネルギーが殺人という罪を犯す可能性があるからエネルギーを淘汰しようとしているようで、気持ち悪いなあと思いました。そんな性欲も物欲もない干からびた世界なら私は生きる意味が見つからないね。あるいはスターチャイルドにさっさとなっちまいたいね。

 結論としては結構理想論を語る人が多いんだなあと思いましたね。私みたいにダダ漏れな人はいなくって、争いのない世界のための理想的な人類の進歩を望んでいるような(いや、私だって一応そういう理想はあるけど、現実にできもしないことを語るだけなんて欲求不満になる(笑))。

 そして技術の進歩を忌み嫌う傾向があるんだなって思いました。まぁ、原子力発電所がああなっちゃうとねえ。でも、だからって原子力エネルギーなんてなければよかった、とは思わない、私。あの莫大なエネルギーをコントロールするために人間としての自制心や危機管理能力や平和の意識などなど、理想的な人間が持っているすべてを習得する努力をする必要があるんじゃないのって思ったくらい。

 ある人が「昔の人は火おこしができたけど、自分はできない。退化している」といったけど、代わりにマッチやライターやチャッカマンがあるじゃあないですか。文明が生んだ道具はそれまでの人たちの苦労から生まれた知恵の塊だから、使わない方法を称賛するのは、使う側のメランコリックってやつだよ。

 とてもとても、超否定的なことばかり書いてますけど(すみません、全然嫌いじゃないし、むしろ考えるきっかけをくれてありがとうと思ってる。性格が悪いだけです)、あの場や時間はすごく有意義で、本当に楽しかったです。

 次は「疑わしきは罰せず、は可能か?」です。私は「疑わしきは罰するにすればいい」と思ってます。李下に冠を正さずだよ。あらんことで疑いをかけられたら、甘んじて罰を受けますとも。それが平等ってものです。