読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

グループの由来

戯言

「生きることは物語を作ること、それは哲学すること」をおっぱじめたのは私です。こんばんは。

非常に今更だけど、このブログのどこかに書いてそうだけど、ブログの記事のトップに厚かましく宣伝貼ってるので書いておこうかと思いまして。

お馴染みさんには「もー、今更?」か「えぇー、またそれ?」だろうけどね。いっつも同じこと言ってんの私は。

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

ユングさんとか河合隼雄さんとか、すごい人たちの言葉をつなぎ合わせて「こういうことが言いたいんだ」って書いたとして、それは私の言葉じゃないから違うんだよね。どんだけ稚拙でも私は私の言葉を使っていきたい。だからアマゾンリンクだけ貼ってスルーする。

私はずっと人はなぜ物語(小説・寓話・神話)を求めているのかなあと思ってた。自分自身、小さなころから本を読むのが当たり前できてたから、なぜかなんて考えたことがなかった。知恵がついてからは「無知は罪だ」とかいいつつ、読んでた。自分の欲求の根本は完全無視してね。なんて恥ずかしい青年時代。

今の段階で私が「そうじゃないかな」と、確信は持てないもののぼんやりと感じているのは、人は物語で癒されるから求めるんだろうな、ってことです。

物語が人を癒すなんて面倒くさいし難しいよね。それって疑似体験で満たしているってこと? とか思うよね。たぶんそれも入るんだわ、本を読むってことは。でももっともっと、脳みその中身のことだと思うんだよねえ。

神話って、簡単に説明するとあり得ないお家騒動ですよね。でも今なお読まれ続けています。全部に教訓があるわけじゃないし、為になる話してるわけじゃない。不思議だなあと思ってました。

あるとき、私は無理してガルシア・マルケスを読みました。背伸びをする時期って言うのは、いくつになってもあるもんだと思います。そんな無理めな読書の最中、突然「おおお! そういうことか!」とたどり着きました。それはね、この中のどこかに自分がいるってことです。

私は、人が物語を欲するのは、物語の中の自分に出会うためだと思いました。

物語の中の自分を見つけて追体験することは、あるときは自分を鼓舞することだったり、またあるときは慈悲を向けて慰ることなんだろうと。自分で自分を補完する作業をしていること、それが物語を必要としている理由の一つだと思ったんです。

あと、絶対に人は人生という物語を描きながら生きている。何かを見て感動することも、誰かと出会って揺れることも、一人で自分だけの言葉で、自分だけの気持ちを温めることも、すべて自分の物語を自分で作って、自分を補完しつつ不完全ながら何とか生きているんだと思うんです。

人によっては誰かの存在がなければ補完できないと感じているかもしれない、人によっては何かに接していないと補完できないと感じているかもしれない。あるいは、一人でこそできると思っている人もいるかもしれない。そんなことに優劣はなくって、人は生まれてきた以上生きる欲求がある、そのことが「物語を作ること」なんだろうと思ってます。

だからこのグループ名。漂うことが好き(結論を出すのが嫌い)とか、結論を出さねば意味がないとか、いろいろやり方はあるだろうけど、絶対に否定してほしくないのは「生まれてきた以上生きる欲求がある」ということです。

自殺は簡単にできると思う。誰かが、家族が悲しむから、っていうのは体のいい言い訳。本当は悲しませたくない自分がいるはず。すべて自分で責任を負うことが、生まれてきた意味、生きる意味だと思う。なので、TNKISMもこのグループも、そうじゃない人はこなくていいって思ってます。

生まれてきたのは自分の意志じゃないもん、と思うかもしれない。誰だってそうだよ。でもどうせ死んじゃうんだよ。じゃあ、いつまでもスタート地点に文句言ってないで、先に進もう。



一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

ちなみに私が挫折して、塩鯖が読んだこの大作。塩鯖が「面白くない」という本を初めて見ました。私がもう一度この本を手にすることがあるのだろうか。

土曜日に、春樹の新作が届きます。