生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

動物愛護ボランティアで思うこと

 おはようございます、こんにちは。ぐうたらしてないのに体重は減りません。アメリカンな肉の破壊力すげぇ。塩鯖も1キロ増えたままですm9(^Д^)プギャー

 一切笑えない私のお腹。腹筋なの? ウォーキングなの? とりあえず、2月の手伝いが終わってからだ。

 さて、相変わらずボランティア活動に参加しています。知らないことだらけなので、とにかく参加してみるのが大事よね、と無駄に近所の保健所に行きます。いつ行ってもチビたちがたくさんいる……。香川県に限らず、雪の降らない地域(冬が比較的厳しくない地域)は野良犬ちゃんが多いんだろうと思います。にしてもだ、えらく人になついたチビワンちゃんたち。こりゃ餌やりさんがいたんだろうなあ……。

 命とは、なにとも比較のしようがないものだと思います。重さがどうとか言う以前に、重さなんてないんだって、どれも大事だから。だけど、ボランティア活動の一環で「譲渡」というの携わると、この問題は避けて通れないように思います。

 というのも、香川県の野良犬のチビワンちゃんたちは本当にたくさんいて、週に何匹も保健所に保護されます。そこで1~2週間を過ごし、慣れる可能性(人間と暮らせる可能性)のある子たちは、保健所からの譲渡になります。保健所で人に慣らす期間を過ごして譲渡。ですが、その訓練の場所にも限りがあります。そこで譲渡ボランティアの方々の登場。訓練の場所を空けるためにも、あるいは保健所では人に慣らすことができない子たちでも、一時的に預かって人に慣らす訓練を行うのが譲渡ボランティアさんたちです。

 ですが、可能性のなかった子たちに関しては、処分されます。どんなに小さくても、どんなに可愛くても、ダメなものはダメなんです。だって保健所の施設にも限りがあるんだから。

 こういう活動(仕事)に対して、「人間が命の選別をしている」だとか「処分される子と、処分されない子の違いって何?(突っかかってくる口調)」とかいう人は、必ずいます。ボランティアさんの中にもいる。私にはこれが不思議でなりません。だって保健所の人も、できる限りと思ってやってる譲渡ボランティアさんも、命の選択をしてやろう、という気持ちなんてないんだから。

 でもさ、これもまた考えようなんだと思うんだよね。考えてごらんなさいよ、私たちには両手があるが、両手のスペースには限りがあるでしょう。いくら「好きなものを好きなだけ取っていいよ」って言われても、両手からこぼれるものはあるんだよ。私の所属しているグループの人たちは、決して選り好みはしていないです。むしろ、全部の子が可愛くて大好きなんだから。

 そこでね、シェルター作ればいいじゃんとか無茶を言う人もいますけど、建設費用はどこからくるのでしょう。そういうことを考えずに、叩くだけの人が多いよなあって思います。あえて言おう、叩くだけならバカでもできると!!(ガンダムの名言にちょっとかけてる)

 SNS時代、シェアや友人の数なんかは武器になるんだろうとは思います。だけどね、シェアでどれだけ広がろうと、回数が多ければ人は麻痺するんだと思うんだよね。で、香川県の野良犬収容や迷子ちゃんは正直多すぎる。もう飽きられているんだろうと思う。そうだよ、飽きるぐらい、「またか」って思うぐらい、野良ちゃんや迷子ちゃんが日々収容されているんだよ。終わらない雪かきをしてるようなもんなんだよ。でもね、数が多いからって手を抜けない、絶対的な解決策も(おそらく)存在しない、そんなところで活動しているわけなんだよ。

 自分の善意の一言が、一匹の命を救うことがあれば、それは感動的だし「勇気を出して良かった」って出来事なんだろうなって、想像はできます。だけどね、おそらくボランティアさんたちは常にパンパンの状態です。その一言がどれだけ負担になるかを考えてほしい。こんなこと言うと「なんてひどい人だろう」って思われるかもしれないけど、そもそもこうした事態(ひっきりなしに収容される野良犬、迷子ちゃん)も「人が起こしたこと」です。じゃあ責任持とう、人の手で消し去られる命にまで、責任を持とう。

 私はそう考えるから、保健所では泣きません。そこで流す涙は、間違いなく自分のための、自分勝手な涙だもん。助けられなくてごめんよ、できることをしてゆくから許してね、キミらのような命を増やさないように、やれることをやっていくよ、って、いつもそう念じながら保健所に行ってます。