生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

お約束の、月報です

 春爛漫ですね。こんばんは。前回の記録から1か月以上たっちゃった。あれから、塩鯖は社会復帰し、私は隠居暮らし……のつもりはないが、実質隠居暮らしです。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 塩鯖の体調は波がありますが、それでも毎日会社に行っております。なんかねえ、復帰を期待されていたから、やることいっぱいみたいねえ。私はExcelの先生のごとく、関数のことを教えていました。飲み込みが早い生徒は教え甲斐があり、同時にすぐ先生なんて不要になってしまうように思う。でもそれでいいんだ。Excelの関数なんて6つぐらい分かってりゃたいてい何とかなるんだ。

 実生活は四則演算以下の、二則演算ぐらいで生きてます。

 そんな塩鯖と、お花見に行った。今年は桜満開の直前であった。



 北の方ではまだ桜が咲いていないんだろうな、と思うと、とても不思議だ。うっかりすると、地球って自分が住んでる地面だけだと思って生きてしまう。

 そして、桜シーズンが終わったころに母と妹と旅行に行った。人生初である。






 今話題の、いや話題の旬は過ぎたけれど、四国まんなか千年ものがたりです。運航日が少ないからか、余裕で満席。向かったのは徳島県祖谷渓谷の秘湯。秘湯というだけあって、湯は最高でした。妹が気合を入れて写真を撮っていたので、姉はあんまり写真に気合が入っていなかったようです。

 多度津駅から祖谷渓谷まで、約3時間の旅。でも特急では1時間。いろいろ説明を聞きながら、島生まれ海育ちには渓谷が感動的ですごーい、すごーいを連発していたけれど、鹿児島の田舎生まれの母にとっては、けっこう見慣れた感じだったようだ。でも大陸が違うからな、よかったろ母。

 そしてその後、左足の薬指を生まれて初めて縫合する程度に切った(実際はテーピングで縫合替わり)。運動音痴は怪我もしないんですよ、動かないから。愛媛に帰る予定だった前々日だったので、全部の予定がぶっ飛んだ。でもそれ以上に、この傷どうやって治っていくの(ドキドキ)が強かったです。1週間後に絆創膏になりました。力むと痛いけど、いやよくくっついたよ、私の皮膚。


 続きはお察しの迷走してるもの。

 そんなうららかな春の中、私は自分探しの最たるところに足を突っ込みました。それが一昨日のこと。占星術はしてるし、パワーストーン付けてるし、コンサルなんだかコーチングなんだかを受けてるし、というとスピリチュアルに傾倒しまくってるように見えるし、事実その部分もあるんだろうけど、反動かなにか分からないのだけど、無性にマズローとかサルトルとか読みたくなってる。

 そんなものを読まなくても、塩鯖としゃべってたら普通に会話に出てくるんだけどね。固有名詞こそ出てこないけど。

 でね、さっき実存主義のルーツや広がりを読んでたら、ふっと軽くなった気がした。芥川龍之介の「ぼんやりとした不安」という言葉でね。ええ、Wiki先生を読んでたのよ(マズローさんは高いので図書館で借りようと思ったんだけど、県庁所在地から取り寄せになるのでお時間がかかるそうです)。

 シュレーディンガーの猫の確信って、実存主義に近いものがあるんじゃないかと思う。っていうか実存主義のおさらい(いきなり)。

目に見えない原理原則などの抽象的観念論を中心とする立場(本質論 essntia)と、その反対に現実にこの世に存在しているものから出発して考える立場(実存論 existentia)がある。
実存主義の哲学 キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル | ポジティブメンタルヘルス研究所byポジメン君

 本質は目に見えない、現実に存在するものは見える。もっと複雑にも言えることだけど、複雑さなんてどっちでもよくてね。ちなみにニーチェさんの「神は死んだ」の物語はすごく慈愛に満ちていていいのよ。

 世の中には目に見えないものを重んじる人と、そうでない人がいて、前者はおおむね豊かな感性だと思われていて、後者はドライな印象を持っていると思う。でも実際、ロマンチストな後者もいれば、絶望しきっている前者もいる。そして概ね当事者たちにとっては、どっちでもいいことだ。

 でも世の中には悲しい性の人たちはいて、ある=1、ない=0であれば、僕の僕らしさとか、人間の善とかって見えないから、0だよねえ、って思ってる人もいる。そしてこの考え自体があんまり意味がないことも分かっていて、そして多くの人が0と1の狭間で(自分と同じように)漂っているだけなんだけど、そこになにも感じていないか、あったとしても人生の焦点がそこには当たっていない。そのことが「ぼんやりとした不安」なんじゃないかと、私は思ったんです。

 ああ、概ね「受けの悪い記事」になったね。だいたい分かってたけどね。

 私は難しく考えるのが好きなのではなくて、よりナチュラルにシンプルに考えたことを表現しようとしたらこうなっちゃう、ということがとても多い。決して頭は良くないし、前衛的な発想もないのだけど、「難しく考えすぎ」「もっとシンプルに考えてごらん」に、相当疲れてしまったわ。

 そうそう、マズローが読みたくなったのは、あの有名な三角形をちゃんと本家から知ろうと思ってね。自分の卑屈さや、頑なさってなんだろうなと思ったときに、どの欲求なんだろうって思ったんだわ。きっとマズローさんは私に宛てて本を書いたりはしていないだろうな、とは思うんだが(当たり前だわ!)、マズローさんの言ってる「対等欲求」っていうのが、たぶん飢えに飢えているんだと思う。

 自分が人より劣った部分があることも、秀でた部分があることも、分かっている。それゆえに、運動関係ではだいたいボッチではあったけれど、それ自体はさして痛くない記憶。それよりも痛かった記憶と言えば、読書会3グループ全部からお断り事件であろう。大人になって転んだら大怪我っていうやつね。あの時なんであんなに腹が立ったのかを考えると、ただただ、本好きの一人として入れなかったことなんだと思う。あれ以来、自分が本好きであることはあんまり言いたくなくなった。それはなぜかっていうと、認められないもの(見えないもの)はないのと同じだからだ。

 まったく、こんな生き方をしては絶対に人生損するわ。

 ずっとずっと自分が「ぼんやりとした不安」の中にいることを、感じ続けるのってしんどいし、ちょっと馬鹿げているなとも思う。なぜかっていうと、それは永遠に終わらないものだから。

 ある意味では、人生こそ勘違いし続けたもの勝ちなのかもしれない。でも、それでは感じきれない文学がある。というわけで、今日は寝る前に「或旧友へ送る手記」と「或阿呆の一生」を読もうかなと思う。ちなみにこの本は塩鯖のものだ。たぶん彼は、この「ぼんやりとした不安」の中にいて、一度は本気で死にかけて、でもそれ自体にフォーカスを絞るわけでもなく、嘆くことなど一切なく、誰よりも汗をかくことで人の心を動かしている人だと思います。

 ああ、ちょっとすっきりした。