だしの実験をする

 おはようございます。今日は塩鯖外出の日。今回の入院では特に主治医の先生の優しさに驚く。外出しておいでって、外出。塩鯖、3日前までは白血球が1000を切りそうな勢いで(正常な人は3,500~9,000です)、あ、この子いまこけたり感染したりしたらアウトなんやね、なんて思っていたのに、注射一本で白血球は復活。塩鯖は注射を「馬のように」と言ってたけれど、本当に「ぶすっ」とやられていた。しかし点滴・採血慣れしている彼にとって、注射の一本や二本どうってことない。

 人間の身体って本当に複雑で、最高のバランスでできているんだなあと思う。だからきっと、根本的に治すことができない病気となると、あらゆるところに弊害が出るのが当たり前なんだなって。

 って、健康のありがたみを語る私だが、高塩分生活なんだけどね。丈夫って財産よねえ(私にとって塩分制限がある病気がもっとも怖い)。

 そんな私だが、さっそくだし実験をすることにした。善は急げという名の、実験したくてたまらない病。

 買ってきた真昆布(5g)、真昆布(5g)+鰹節(2g)で水出しのだしをとる。水の量は250ml。というのも、何となくフォローしているこの料理家さんの書いていた基本の量。

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 だしとなる材料20gに対して水1リットルなんだと。という昨日の記憶を書きつつ確認したら、昆布だしは水の1%(だから1リットルに10g)なんだって。さっそく間違えてる。贅沢なだしがとれた、ということになる。

 昨晩仕込んだので寝起きで味見。昆布だし「ヨード感すげぇ……」、昆布かつおだし「馴染みがあるようでないような」である。それもそのはず、私は「いりこだし」で育っているのだから。でもどっちも美味しいのは分かるし、塩分減らせそうだなあって分かる。むしろこのだし感をぶっちぎって塩を入れたら、そりゃ味覚バカになるだろうな、って。

 うまみ成分は世界が注目しているそうだが、そもそも”うまみ”の味って「微妙な感じ」「もやっとした感じ」の味だ。うまみを食して「うまーみ!!」ってならない。ただ、ここに足してゆくと調和が生まれて「そのものの味より美味しい」になる。というわけで、キンキンに冷えただしを飲んでどうのこうの言うのはちょっと違うのだ。だから今日はこれで晩ご飯を作ろうと思う。

 さて、昨日は材料を買ってきたわけだが、とってもびっくりしたことがあった。それはかつお節のメーカー。「だし生活はじめました」の本では「お馴染みのにんべん」的な書かれ方をしていたが、改めてスーパーのかつお節コーナーを見ると、にんべんなんてない。きっと私の人生ではにんべんのかつお節に出会っていない。なぜなら、みかん県にはヤマキマルトモがあるからだ。かつお節はこの2メーカーのものしかなかった。けれども、実に多種多様なかつお節がある。そしてこれこそご当地だからだろうが、いりこもたくさんある。いりこの削り節も当然のごとくある。そしてさらに、普通のスーパーに業務用の荒削り節が3種類ほどもある。パッケージには「うどんつゆ」と書かれている。

 そして昆布。昆布は驚きなことに、真昆布が1種類しかない。調理用の日高昆布はたくさんあるのに、利尻と真昆布は1個ずつ。なるほど、そりゃ昆布だしってあんまり胸が熱くならないわけだ。ちなみに昆布はくらこんコーポレーション(大阪)がぶっちぎりの品数でした。

 昨日さんざんなじりましたが、そういうことだったんですね。私が勉強不足でした。結局のところ、とてもよくできた「だしの本」です。私もこれからだし生活始めます。

だし生活、はじめました。

だし生活、はじめました。

 さて。

 チャーミングなじじい代表の谷川俊太郎さんの愛ある質問箱を読んだ。

谷川俊太郎質問箱 (Hobonichi books)

谷川俊太郎質問箱 (Hobonichi books)

星空の谷川俊太郎質問箱

星空の谷川俊太郎質問箱

 私の中にどれだけ谷川俊太郎さんがいるかというと、ごくごくわずか、ぽっちりだ。だけれども、時々見かける彼の言葉は、私の心の根っこを揺らす。あまのじゃくの私は糸井重里の考えることはだいたい大好物なのだけど、素直に乗りたくなくて遠回しに手に取るということを、おそらくほぼ日ができてからずっとやっている。ライトなストーカーだ。で、この本はそのほぼ日の企画から生まれた本なのだそうだ。

 詩人という生き物を、私はほとんど知らない。ヴェルレーヌを初めて読んだ中学生のころからずっと、詩人ってものは空気中に浮いた感情というものをいいタイミングで紙に写している生き物なのだろうと思っていた。でもそれは、あながち間違いじゃないのだろうと思うけれど、なんかこう、谷川俊太郎さんはちょっと違うんだよね。はるか彼方、銀河の果てや宇宙の果てから、地球のごくごく個人的なひとりを掴むためだけに、手を伸ばしているように、いつも感じるんだよね。

 哲学者たちは賢い頭でさんざん考えて「言葉とは限定的なものだ」的なことを言ったけれど、本物の詩人はきっとその枠を常に超えようとしている精神的アスリートなのだと思う。善きことを書こうとか、自殺しようとしている人を止めようとか、具体的な目的なんてなくても書けるのが本物の「言葉使い」なんだと思う。

 本当に心を揺さぶる言葉に出会うと、人は「よし、もうちょっと思い切り生きよう」っていう気になるものなんだなって思った。狭まった視界が開けた、なんてもんじゃなくて、自分の中にはまだまだ無条件に「幸せを感じたい」「自分を幸せにしたい」という欲求があるんだってこと、たぶん勘違いかもしれないけれど、人間である自分を全肯定するって感じが生まれるんだなって思った。

 詩は芸術なんだな。物書きじゃなくて芸術の領域のものなんだなって、思う。ただし、私は芸術を上手に鑑賞できないのだけど(「なんか好き」と感じるだけではとても不安で、私はなぜこれが好きなのか、彼/彼女は何を思ってこれを作ったのか、だから私はこれが好きなのだ、と理解できて初めて「なんか好き」と言える、非常に面倒くさいタイプなのです)。

「物語を書いてみなよ」と言われている。ほんの数回、新人賞に落ちたぐらいで止めてしまった「物語を書くこと」。この言葉を見ると私は簡単に「無」になれる。全然なにも、思い浮かばないのよ。