生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

ばなな暮らし

 おはようございます。塩鯖はどんどん減量しています。私は地味に増量しています。もうシーソーでは遊べない。

 新しい作家さんの本を読もうかなと思う気持ちはあるものの、やはり安心して読めるものを探してしまうわけで。

 noteで連載している有料記事の単行本化。私はやっぱり紙が好き。一時期は課金して読んでいたんだけど、あちこちを読むのに疲れてしまうのでやっぱり本に戻る。なんだか昔のばななさんより軽やかになってるなあと思う。それはきっと、雑念が取り払われてゆくからだろう。生きていくということは、そもそも限りがあることだから。でも若いころはそんなの分かんない。むしろその限りを永遠のようにとらえて絶望したり、過信したりもする。だけどそれでいいんだと思う。そうしないと、生きていくことは限りがあるんだって思い知らないから。

 かといって、私はばなな信者ではないので、なめ尿とかしないけれどな。だいたい舐めなくてもトイレの時点で分かる。ああ、あのソーセージ食うとこうなるよね、とか(いえ、なめ尿したほうが確実に分かるとは思うけれど)。

 このエッセイを読むと、中年からの生き方っていうことを考える。うっかりすると光のごとく過ぎてゆく時間を、どうやって手のひらで味わうのかということを考える。良い意味で、雑念に時間を割いている場合じゃないんだって気づくこと、まろやかに世界を見てゆくこと。それってとても大事だよなあって思う。

 他のエッセイもたいてい読んできたと思うけれど、この本では彼女の「文章のプロとして」の姿を見ることができる。私はこれが書かれてあるから「買って手元に置いておこう」と思ったぐらい、それはとても貴重なことだと思う。そもそも作家って文章を書くことで収入を得ているわけだけど、ぶっちゃけ作家って増えたよねー。いろんな仕事のやり方があるだろうけど、納得のいくやり方=気持ちよくお金を稼ぐことに的を絞ると、とてもシビアに選んでいかねばならないんだなって思う。

 この波は働き方改革という名前で会社員にも及んできているんだろうと思う。ようやく本当の意味でリゲイン世代の働き方を買える時が来たのだと思う。けれど、私たちは変わることを恐れる本能を持っている。だからやすやすと乗り換えられない人がいても当然だと思う。けれど、自分の可能性を増やせる方向へ、楽しく才能を発揮できる方向へ、ということであれば、変えてゆけるんじゃないかと思う。

 帰りたくないからフラリーマンというのは、ごみ箱にゴミが入らなかったからそのままにするのと同じだ。小さな秩序の乱れが、大きな秩序の乱れを生み、亀裂を生み、こんなはずじゃなかったのになっていう夫婦げんかになる前に、然るべき時間にお家にINできるようになるといいね、サラリーマン諸君。もちろん、洗った皿の置き方ぐらいでガタガタいう奥方にも問題があるんだと思う。そんなことでガタガタ言わなきゃいけないほど、なにかに追い立てられているってことだから。現代のときの流れは必ずしも自分の時間の流れ方と同じではない、時が早く流れたら自分も早く老いちゃうよ(アンチエイジング追い付かねえし)ぐらいにゆったりと構える日があってもいいんじゃないかと思う。

 我が家はちょっと時間が止まり過ぎてますけど。ごみだけはきちんと出しています。

だしとスープがあれば

だしとスープがあれば

 借りてきたレシピはこれが一番読みやすい。だしだけに、汁物尽くしになりそうな貧相なレパートリーなので、これでちょっとレパートリー増やそうと思う。ま、一人暮らし状態だと、それも難しいのだけど。早く退院しないかなあ。