生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

三木清の人生論ノート

 おはようございます。

 もういつ録画したものかも忘れてしまったが、三木清の「人生論ノート」の100分で名著を録画していたのだ。それを見始めた。

 哲学というのは、いつの時代も、どんな状況でも、普遍的に人々が「分かる」って感じることが大切なんだと思う。そうじゃないとあんまり意味がないというかね、机上の空論になってしまうからね。

 現在108版。大ベストセラーでしょう(読んだことなかったんだけど)。

人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

 青空文庫はこちら。
三木清 人生論ノート

 青空文庫で読んでいるが、すっごい読みにくいってことはなくて(むしろ私にとっては海外文学の方がはるかに読みにくい代物)、ただあまりに完結過ぎるから1行1行立ち止まらなければならないことがある、という感じ。読む人に対して決して親切ではないが、人間にとって最高に温かい思想がここにあるんじゃないかなと思う。

 とても慎ましく、検閲がら逃れるために直接的な表現こそ避けているものの、時に前のめりなほどに臨戦態勢になり、私たちに問いかける。人の可能性について希望的で、熱く、常に遠くを見ている。自分の中の可能性のすべてを、この本を読む人たちに託そうとしているかのようだ。

 哲学ってお手本もなければ正解もないものだ。だから、その人の人間性がとても大切になる(三木清的に言えば「秩序」ということになるのか?)。私は「意識的な善きこと(正確には、正しきことという外から持ち込んだ意識)」がベースにあることに対しては、どちらかというと拒絶反応してしまう。もちろん、お年寄りが困っていたら手を差し伸べるのが、人間が持つ「優しさのひとつ」だろうと思うが、その助け合い精神のベースに、本能以外の「善きこと」意識があると借り物の「正しきこと」の意識があると、もう苦手なんだ。いや、ホントにほとほと困ってるときならば「ありがたし」って受け取るけどな。例えば山の中でパンクしたとか(違う事件に巻き込まれそうだな)。

 三木清は内なる秩序といった。この秩序は何者にも侵害されてはならないもの、いわば人間の尊厳だ。人間は不出来な生き物ではあるが、だからって外からの秩序によって正さねばならないかというと、必ずしもそうとは言えないというわけだ。喧嘩を売るわけではないが、私はどこかでキリスト教って外からの秩序だなって思ってる。だからキリスト教が、ということは思わなくて、あれで人々の秩序が保たれるならいいじゃないか。

 人には欲求がたくさんある。私はお腹すくし、私は眠りたいし、私は知りたいし、私は知の欲求の過程すべてを誰かの役に立てられたらいいなと思っている。それを祝いたい。

 宮沢賢治から自己犠牲を感じる人は、もうちょっと賢治の作品を読んでほしいな。銀河鉄道の夜グスコーブドリの伝記だけが賢治ではないんだよ。本当の「善きこと」を人は選べないんじゃないかとさえ思う。本当の「善きこと」とは、天からのギフトであり、人の領分(人がどうこうするもの)ではないから、だからこそ人は「善きこと」を求めたり、憧れたり、羨んだり、泥を塗ったり、美しすぎて直視できなかったりするのではないだろうか。

 三木清の解説本が欲しいなあ(旧漢字に四苦八苦しています)。解説本を出しているのは岸見一郎さん。アドラー心理学の人。アドラーすごい人気だね。超実践だからかね。

三木清『人生論ノート』を読む

三木清『人生論ノート』を読む

 今の自分は、決して生きやすい道ばかりを選んでいないなって思う。でも、どうしてだか舗装されていない道を選びたい欲求がうずうずするからだ。たぶん、私の今までの道も、これからも道も、ほとんどの道は誰かが既に歩いたものだろう。だけど、私はその場その場で道を選びたいし、道案内はいらないって思う。いちいち、自分のペースで立ち止まって感動したいんだ。