生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

自浄作用とか、自助とか

 怒りとは、単純で複雑なものである。哲学するエッセイストです。嘘です、けっこう普通の考え事レベルです。

 動物愛護のボランティア活動をしている。というのは何度も何度も言ってるので「またそのネタか、どうせお前怒るんだろう」と思われているであろう。否、今日は怒らない。っていうか、怒ってもなにも変わらないのだ。だから怒らない。

 まとまりが悪くてやけに長い。4000字弱もあるんで、読むんなら後ろの太字以降でいいと思うよ。

 昨日塩鯖と、お互いのいいところを言う、ということをやった。これはのろけではなく、かといって自己啓発的ななにかではない。お互いにとって一番身近な他人だから時々やるのだ。

 塩鯖の良いところはたくさんある。料理、掃除、片付け、パソコンなどの機械系の修理、オフィスソフトも使い方をちょっと教えたら自分で本を買って社内の文書や表計算を作り替えた。家事全般もやろうと思えばできるわけで、正直なところ日常生活レベルでは私がいるほうが圧倒的に散らかる。部下からの信頼も厚いし、体制が変わった今の会社では上司からの信頼も厚い。有言実行を続けてきた彼が培ったすべてが、一年休職の後の復帰だ。そして圧倒的に素直な人間である。私なんかよりよく泣く。

 けれど塩鯖には悪いところもあった。過去形なのは、本人が意識して昇華させようとしているからだ。

 たいてい何でもできてきた人は、概ね傲慢である。塩鯖も例に漏れず傲慢であった。塩鯖が尊敬している人には「昔はイケイケの無神経な人だった」と言われているぐらいである。なかなかのオレSUGEEEEEEEEEE!!!!! であった。そして彼は正直者なので怒りも結構ストレートに表現してしまう傾向が強く、傲慢さと重なるとまぁまぁの意圧力であったと思う。けれど、塩鯖は忠を尊んでいる。だから正しいことを言う人ではあるが、それゆえ泥水は飲めないけれど、余儀なく泥水に入ることもあった。

 けれど今は違う。傲慢さは自覚していたから、「オレSUGEEEEEEEEEE!!!!! だろ」な時ほど謙虚に振舞うようになった。怒りに関しては、出来心で私が魔法のアドバイスをしたのがきっかけで(と言ってくれる)、怒りをコントロールしようと考えたそうだ。それは小手先で怒りの矛先を変えるとか、怒りの先送りではなく、本当のところ自分は何に対して怒っているのかを、自分の中から見つけるよう努めた。

 このすべては「責任を果たし目的地に到達するため」ではあるが、今までの「正しきは正義だ」から「自分のような人間が正義を伝えるには、どう表現するのが最適か」に変わったんだと思う。これは簡単な変化ではないと、私は思う。

 はい、では次私の番。私はこういったシーンで、ほぼ100%スキルを褒められてきた。文書作るの早いねとか、タイピング早いねとか、プログラムできるの凄いねとか。最近は魔法スキルが増えたのでそっち系もある。だけどそれは単純に私が努力して身に付けたスキルであって、努力さえすれば誰でも身につくと思っている。だから、そこを褒められるということは、他に褒めるところがないのか、あるいはそこしか見えてないんだろうなって思っていた。塩鯖も同じところを褒めていた。なので今日はスキル以外の場所にしろと言った。

 塩鯖はしばし「うーーーーーん」と考えていたが、( ゚д゚)ハッ! とした顔をして「オレとはやり方が違うけれど、常に正直で誠実でいるところ」と答えた。おお、そうだ。私は10年前のあの日から、いかなる嘘もつかないと決めて生きてきた。

 子供のころは、怒られたくない一心で嘘をつく。言い訳もする。大人になってもそれは変わらない。しかし私はある瞬間から「相手を思いやる嘘は優しさなのではないか」と思うようになり、最悪なことにいいように解釈し、ほぼ嘘まみれの生活を送った時期があった。あの頃学んだことはただ一つ、嘘は嘘を呼び、自分自身も分からなくなる。

 あの頃、一生分の嘘をついたと思った。だから事が終わったとき「残りの人生、いかなる嘘もつかない」と自分に課したのだ。

 私のこうした姿勢は、まぁまぁ評価されない。人を傷つけるし、怒らせるし、人間関係を悪くすることもある。前々職ではこうしたところが疎ましいと思われたり、評価されたりもした。そのおかげで思っている以上にややこしい人間模様になったこともあった。けれど自分本意ではあるけれど、あのとき思ってもいないことを言った自分とか、やむなくとはいえ不本意な行動をとったということで、夜眠れなくなることはない。後悔はない、ということだ。

 こう書くと、いろいろなところで人と衝突する私を想像するかもしれないが、そうではない。必要な衝突以外は極力避けたい弱気なタイプの私だ。だから概ね、関心を低くすることで対応してきた。客観的とも違う、冷静とも違う、突き詰めていえば自分にとって関係がない→口出ししない、という姿勢である。だから私は、ここ3年ぐらい、塩鯖のこと以外ほぼ無感動に生きてきた。

 まったく良くも悪くもである。けれども「嘘をつかない」という信念は曲げていない。そこを塩鯖は評価してくれたのである。伊達にべったり共に過ごしているわけではない。

 あともう一つ。良くも悪くも、自分が思っている以上にポーカーフェイスなところも長所と言えば長所だ。魔法のお仕事の方では、毎日毎日、星を読む。1年半、稀に来る応援だけを励みに休まず続けている。去年の今頃は塩鯖は入院鬱っぽいし、家にコメの虫はわくし、仕事はヘマするし、同僚は仕事を擦り付けるしで、モチベーションを保てる理由がひとつもなかった。だけど続けた。大なり小なり文章的に「しんどいモード」は見えたかもしれないが、「もうこれやりたくないオーラ」は出ていなかったと思う。良くも悪くも、ポーカーフェイス。継続こそ力なり。

 私も塩鯖も四十を過ぎ、孔子さま的には「四十にして迷わず」の年齢となった。迷いは多いが、お互いにこれから取り組まねばならないことも見えた。

 そんな話をしているときに、ふとボランティア活動の中で見える「正義という大義があれば~」という心情について考えた。彼ら、彼女らは、怒りを保健所や、意志を同じくしないボランティアにぶつけている。問い合わせが多くなると日常業務に支障をきたすと伝えても、自分たちの言う通り、一匹の動物の殺処分も行わなければこんなことはしないのだ、自分たちもしたくてしているわけではないのだ、という論法である。

 話だけを聞くと、これは平行線タイプの議論だと思う。彼ら、彼女らは、本当に動物愛護の在り方について怒っているのだろうか。本当の怒りは違うところからきているのではないだろうか。

 例えば、意見を言うこと自体にコンプレックスなり苦手意識がある人であれば、発言したことそのものを評価されたいと思うだろう。しかし、実社会では「よく発言したね」と言ってくれる人はほとんどいない。例え評価するような言葉があっても、使い古された常套句程度のものだ。では誰がそれを評価すべきかというと、自分しかいないだろう。実にバカバカしく思えるかもしれないが、まずそこを自分で評価しないと「私の意見はいつだって無視される」という結果に怒り続けるんじゃないかと思う。意見を届ける方法はひとつだけではないということを、本当の意味で理解していないのだと思う。だから過剰なまでに怒り続けているのではないか、と私は考えた。

 そんなに簡単な話ではないってわかってるけどね。

 これは塩鯖の「自分のような人間が正義を伝えるには、どう表現するのが最適か」や、冒頭の「怒ってもなにも変わらないのだ」に繋がる。言葉を届けて伝わらなかったとき、受け取らなかった相手が悪いのではなくて、自分に非や怒りといった感情はあるのか、あるとしたらどこから来たのか、ということを見直して再チャレンジするのだ。これを塩鯖は自浄作用といった。聞き間違えて「自助作用?」って聞いたが、どっちの言葉でもいいと思う。要するに、自分で自分の感情を理解する(癒す)ことを指すのだ。自然が自然の力で汚染を浄化するように。これができれば、賢治の「本当の善きこと」に近づけるのではないか、と二人で話していたのだ。

 私の話しに戻そう。私はまだまだ直すところがある。感情と理屈を混ぜすぎるし、複雑に考えすぎるし、素直じゃない。誰もに尊敬される人になろうとは思わないけれど、よりシンプルに、より思慮深く、ありたいし、そういう世界に住みたいから、私は自分の躓きにひとつひとつ丁寧に問いかけて、直していこうと思っている。