生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

寝て、起きて、書く

 モンさん、今日も元気。おはようございます。全部根っこが定着してくれると嬉しいなー。モンステラは生命力が強いから、その点は心配が少ないのだけれど、でもやっぱり植え替えた後はちょっと不安。

 さて。

 昨日、熱を出しながら(なぜか昨日は動くと熱が出る人だった)頑張ってくれた塩鯖と話したことを書いておこうと思う。

 少し前に読んだ、河合隼雄さんの物語の話しでは、人は科学を知って科学こそ真実であると考え、あらゆる学問、思想についても科学的な考え(第三者としての観察者、そして「こと」と結果を線で結び、そこの因果を理論として考える方法)で見ようとし、本質的な自己を見失っているのではないか。ということを書いていた。もちろん、それがすべてだとは言わないけれど、思い当たる節はあるように思う。

物語を生きる―今は昔、昔は今

物語を生きる―今は昔、昔は今

 例えば、私たちは何か行動するとき、まず目標を立てたり、目的を定めたりする。そしてそこからのPDCA(plan-do-check-act cycle)とか、他にもあると思うんだけどそういうの? で分析したり、マイルストーンを設定したりするんだよね。それって、目標ありきの行動であって、私のようなバカ正直なタイプは、この目標に感情を入れられないのだ。だってそれは、行動のための行動だから。

 人は生きていく中で、なんらかの思想を掲げているんじゃないかと思っている。それの多くは「人々が平和に暮らせますように」のような、漠然としたもの。どんどん掘っていくと、その人の個性ともいえる、その人の思想が現れる。っていうか、掘らなくてもいいんだけどね、分かってりゃそれは話しが早いだけで。ただ、誰かの目標が自分のそれになり替わることは大いにあるし、あるいはなり替わったうえで本当の思想に生まれ変わる人もいるかもしれない。

 私は塩鯖に、そこの部分を聞いたんだ。会社のために、下の子たちのため、なぜにあなたはそんなに頑張るの? どこを目指しているの? 迷うことはないの? って。前の2つは普段一緒に生活しているし、見ていても分かること。ただ、自分の手柄にしたい人には理解できないだろうな、とは思う。犠牲心とは違う、使命感で動いているから。

 最後のひとつ、迷うことはないの? については「迷うよ、魔がさすこともあるし。でも人だから魔がさすことは当たり前なんだと思うから、揺らがないようにする。それだけ」と言った。

 私は、自分よりも自信がある人は、少なくとも自分と同じ地点で悩んではいないと思っていたところがある、ってことが、この話を聞いてわかった。っていうか、ちょっとした衝撃だった。自分が悩んでいること、迷っていること、うじうじしているところなんかをとっくに脱出しているから、それだけ自信をもって自由に振舞える(人の顔色を窺ったり、投げやりになったりしないでいられる)んじゃないかと、思ってた。けれど違うんだってこと。

 だけれども、()内のような姿勢はなくって、むしろ常に自己との闘いに問題を引き寄せる思考であるから、誰かがどうだからなんだ、っていうことはない。だからこそ、自信があるように見えるし、自由に振舞っているように見えるんだと思う。

 最近、自分について確信が持てたことがある。とにかく考えすぎだということ。でも、古い記憶に思い当たるところがある。嘘はダメだと育って、嘘をつかないで育ったある時、デリカシーのなさを指摘されてモノが言えなくなったこと。適度に湾曲させたり、盛ったり、あるいは「言っていいこと、言わなくていいこと」を分別するようにして「デリカシー」を表現しようと思ったけれど、どんどん自分は嘘をついているんじゃないかって思って、やっぱりしゃべるのを止めてしまったこと(そっか、迫害されてたからしゃべらなくなったんじゃなかったんだな、私)。しゃべることを止めているあいだ、ずっとずっと、私は考えていた。デリカシーとはなんぞや、人に不快な思いをさせないで自分を伝える方法って、どんなだろうかって。良いことや、学びになるようなことが書いてあるからわざわざ書籍化しているんだから、きっと本に書いてあるようにしたら間違えないんじゃないかって、思ったこともあったな。そう、そう信じていたな(その後、ヘッセやサリンジャーで混乱するのだが)。

 じつに些末なことに、ずっと引っかかって生きていたのだなと思う。ねん挫したことがないから、ねん挫の痛みが分からないと言い、デリカシーがないと言われ、ねん挫しようと頑張ったり。そう、こういう不器用さ。私は常にこういう不器用さで生きてきたような気がする。

 とてつもなく不器用で、ただただ真っ正直な人間なのだから、今更器用に生きようなんてことは、できないのだ。きっと。

「誰だって自信がない」っていうのは、本当のことだと思う。だけど、質が違う。その質の違いが、個性だ、っていうか個性としよう。

「常に自己との闘いに問題を引き寄せる思考」と先に書いた。本当のところ、これは思考じゃない、そういうクセだ。自分の感情と直結してる人の特徴のクセ。純度の高い自分(言い訳も、人の目もない、自分だけの世界。誰かを引き入れて理由を付けることとか、自分の評価に方向付けることを「魔が差す」って言う)でいることを、努めている人が共通するクセなんだと思う。そしてこういう本音は、私のような頭でっかちだって持ってる。だからそれを思い出すこと、繰り返してクセづけること、こうすることが、塩鯖への近道である。

 塩鯖バカみたいになっているが、そりゃそーなんだ。私は今、この人を目指しているから。このメンタル、スタンスを自分のものにしたいから。そして、塩鯖だけじゃないんだよ、そういう人の存在。いてくれるってことが、ありがたいね。



 全然関係ないけどさ、パラリンピックとかで見た障碍者の方たちが付けている義足。あれってすごく計算された、優れたものであろうから、実はもう技術の世界の話しなんじゃ、、、って話をしたら、じゃあキミはあれを付けて早く走れそうな気がするか? と問われた。なるほど、そういうことですか。私の頭ばかりが、SFの世界にボヤージュしているようだ。こういう発想も、自分の問題を解決せずに来た人間らしいと思う。

 甥っ子三男が、兄ちゃんたちを追い越して逆上がりをするようになりました。正確には、長男は逆上がりをクリアしているのだが、背丈が伸びて遠心力がつくようになってできるようになったのだ。おばさんと一緒だが、それは逆上がりができたことにならんのだ、長男よ……! まぁ、なにかひとつでいい、誰よりも頑張って誰よりもできるようになれば。