生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

三木清『人生論ノート』を読む

三木清『人生論ノート』を読む

三木清『人生論ノート』を読む

 100分de名著シリーズは読んだことがないけれど、たぶんそれよりは読みごたえがあると思う。けれども、読みにくいわけではない。途中、途中で熱さを感じる。それは三木清の熱でもあるし、岸見一郎さんの熱でもあろうと思う。

 最近、私が好んで読む著者たちは同じ哲学(思想)のもとで生きてきた人ばかりだなと思う。いや、同じに見えるのは私が同じところばかりに感銘を受けるからだってことは知っているけど、そればかりではないと思う。

 検閲が厳しい時代に書かれた本だ。自分の意志よりプロバガンダを書かされていた時代だ。ああ、そうだなあ、そんなことを書かねばならないなら、私は筆を持つのを辞めるだろう。たとえこのサイトのような、超個人的なものでさえ検閲され、書き直されるぐらいなら削除する。でもそれってすごくヤケクソの行動だよね。頭を絞ってでも書かねばならない、なぜなら我々は人間だから。人間である私は、自分の頭の中のことを書くことが好きだから。

 この本は人生論ノートの解説でもあり、人生論ノートそのものでもある。私たち体験していない時代だから知らないことばっかりかというと、全然そんなことはない。むしろ今にも通じることばかりだ。

 例えば、人は成功と幸福を同一しているがそれはちがうものだとか、そもそもの哲学の役割とか。今もそうだけど、哲学はあくまで「できあがらないもの」であって、ソクラテスだろうがパスカルだろうが、生きたそのあいだだけ紡がれた「人が幸福を得るために」人とはどんなものなのかを解こうとしたものだ。誰一人(あるいは誰もが)、解けた人はいないと思っている。でも時代が幾重にも折り重なり、今の私たちは「自分と似た思想の人」を見つけることができるほど、哲学も厚みが増した。けれど、彼らは私ではない。彼らのどのエッセンスをもらい、私がいかにしてゆくかは歴史のどこにも刻まれないだろうけれど、確実に哲学だと信じている。

 あれ、ちょっとズレてきたわ。ごめん、寝起きなんよね。

 幸福は人格だ、と三木清は言う。

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である。

 この辺はもう、なんて美しい文章、そして男らしく力強く新鮮な響きだろう。多くの文学がそれを描いてきた。誰かの成功が必ずしもあなたを幸福にするとは限らない、上辺だけの善や幸福は偽物であると。それなのに、やはりご時世も相まって「明示的な結果」を求められる。結果が出るものこそが真実、正解だと思ってしまうと大間違いを犯す。

人が後悔することの半分以上は、己に抗ったためであろう。抗った結果として破綻を来したなら、これは明らかに不幸であろう。
己に従って行った選択であれば、成功はまさに幸福であるし、失敗もまた彼を傷つけることはないだろう。

 私たちはどれだけ、彼の示す不幸で傷ついてきただろうか。この一文を読むだけで、不幸を抱えた過去の自分が「あの時は痛かった」「傷ついた」「辛かった」と叫びだす。もちろん、自業自得のことだってたくさんあるけどね。あるけども、戦争のころよりははるかに生ぬるいけれど、少なくとも多数に抹殺される少数の意見というものを、多くの人が経験したことがあるのではないかと思う。

 ま、そんな中でも「学校ってこういう場所だからな」って俯瞰できればよいが、当方普通の学生だったわけで「だから言ったじゃん! なんでこれで連帯責任なんだよ不公平だ!」と不満を募らさせていた自分自身は、ある意味では突発的で自己中心的な事件を起こす人たちと大差がないのかもしれない、と思うところだ。

 戦争は人々にいろんな影響をもたらした。言論の自由が奪われたことは、戦争の経験がない私たちもよく知るところだけど、本当の恐ろしさはきっと別にもあったに違いない。太宰治も書いてた、トカトントン。これを読んで初めて太宰が好きになった。

 戦争の怖さは、言論の自由を失うことだけではない。幕末も太平洋戦争後も襲ってきた「変化の波」。世間は浮足立ち(抑圧されていたからこれ自体は責められることではないが)、信念が簡単に曲げられ、今まで信じてきたことを無にされたとき、そこに疑問を呈す自分だけが狂ってるのか? 今ここで喪失されているものを、自分が消えていく感覚や、今まで過ごしてきた時間って、なんだったんだろう、って膝から崩れ落ちそうになる真の絶望を味わった人たちが抱える傷、闇、苦悩や葛藤は計り知れない。

 三木清は戦争によって殺されてしまった。戦地に行って生きて帰ったのに、死ななくてよかったのにと思うけれど、彼の悔しさや無念さや悲しさの、本当のところなんてこの平和ボケした時代を生きている私には分からない。けれど、死をもって初めてあちら側に行った人に会えると信じているならば、最愛の人たちに会えましたか、と声をかけたい。あなたの思想は、どんな哲学よりも文学的で美しく、読むと生きる(幸福を求める)力が湧いてきます、って。

 実はまだこれ、半分しか読めていない。精出して読みます。

d.hatena.ne.jp