生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

なぜか「罪」に集中してしまった

 おはようございます。昨日は21時前に寝たね! 3時過ぎに起きたけどまた寝たね! どうしたこの不調、とにかくたる~い一日だった。今日はどうかな。今日もまたポスティングに行くのだけど。

 今回のポスティングは近所なので、回数を分けていっているのだが、思い切って2時間ぐらいがっつりやったほうがいいのかもしれない。こまめに休憩しつつね。

 桂歌丸さんの告別式をニュースで見た。最近思う、自分が「これだ」と思ったものにまっしぐらに生きた人は、皆かっこいい。「これだ」と思うものを見つけられない人は、思っている以上に多いのだと思う。というのも、私はそうだが私の周り(塩鯖はもちろんのこと、両親、妹などなど)はそうではないからだ。

 妹は今でこそ求められるから作るのだ的な立場だが、工房を作るまでは(法律的なグレーゾーンで活動していたころは)迷いまくっていた。けれど、姉がけしかけたものもあるけれども、思い切って工房を作ったことでまっすぐに突き進むだけになった。なるほど、「これだ」と思うものは結局自分で決めるかどうかなんだな、ということもとてもよく分かる。

 けれど私は迷いまくり。我ながら不甲斐ない。多くの人が歩いている道を外れることに対して、こんなにも自分が恐れていたのかと驚く。昔は「親の敷いたレールなんてごめんだね(ペッ)」ぐらいの勢いだったのだが、若さって本当に恐ろしい、いや、今の私が怯えすぎているのだ、きっと。

 人生で一番痛い経験といえば、稼働中のサーバーデータをぶっ飛ばした26歳の冬でもなく、男選びを間違えてメンタル風邪をこじらせて死にかけたときでもなく、人の道を踏み外して関係者の善意や好意を、ことごとく踏みにじった2年間だろう。

 あの経験以降、自分は幸せになってはいけないのだと思っていた。一生誰かの召使でいたほうがいいと思っていた。でもこのメンタルでは、「これだ」って思うものを見つけることなんてできないだろう。常に逃げようと、及び腰で生きていたら、例え「これだ」に出会っていたとしても、違う違うってなかったことにするだろう。

 私は基本的に喧嘩両成敗だから、一方的に私だけが悪かったと何もかもを被ればいいとは思っていないけれど、それでも、まだどこかに贖罪しきれてない思いがあるのだと思う。だけどもう、よく分からくなっているのは事実。なにがどうであれば贖罪したかなんて、誰にも分からないことだから、私は言い訳しているだけなのだろうって、どこかで分かっている。

 桂歌丸さんのように、あるいは名前こそ上がらないものの「これだ」というもののために、人生をささげたかっこいい人たちに並ぶためには、私は退路という名の言い訳を断たねばならない。なんて仰々しいけれど、きっと多くの人はこんな大仰に言うこともなくやってることだと思う。

 変に小賢しい自分と、今年は決別したい。歌さん、肝が据わったいい男でした。

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 今回の大雨で亡くなった方々の中に、妹の親友の友達がいる。ちょっと遠いけれど、妹の親友は妹のようなもの。その親友は島外のレベルの高い看護学校で(だから少数精鋭)その子と知り合ったそう。今は結婚して子供もできて疎遠気味だったそうだが、島に嫁に行ったのでいつでも会えると思っていたそうだ。

「そのうち」と先送りにする甘さ、私たちは誰でも持っているのではないだろうか。私はある。旅友との旅行もそう、最近あまり行ってないなあと思う。その中には「そのうち」が含まれている。家族のことに関しては「そのうちはない」と思っているけれど、それでも時折、日々に押し流されてしまうこともある。14年前、あれほど後悔したというのに、だ。

 それでも、私は「忘れること」を悪としたくない。大事なことは忘れたくないが、忘れてしまったことを罪として、一生背負ってゆく人生を、誰にも選んでほしくない。なぜならそれはあまりにも悲しいからだ。後悔というのは後ろを向いているときに行うもの。そういう時間も人生には必要だろうが、ずっと後ろを向いている人生というのはあまりにも悲しい。

 だからって年中お気楽に「なんとかなるっしょ」精神で生きている人には相当イラっとするのも事実だが。時折「世の禍よこいつに全部降ってしまえ」と思うほど、もはや呪いの領域。それは間違いなく私がそうしたいのにできないという羨望からだ。

 私自身、自分の難しさに辟易することは多い。めんどくせー人間だなあと、しみじみ思う。ちなみに塩鯖にはこうした感情がほぼないようだ。しかし、わざと人をイラっとさせるツボはわきまえているから、何がどうでイラっとするかはよく分かっているのだろう。きっといつものように「害がないものはどうでもいい」姿勢だとは思うけれど、この徹底っぷりいつも感心する。

 たぶん私は過敏すぎるのだ。どうでもいいことに過敏になって疲れちゃっているのだ。ああもったいない。憐憫に時間を費やすのを止めよう。 

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 朝方の二度寝のとき、夢に妹が出てきた。昨日見た怪談仕立ての夢(悪霊が住むペンションに一泊するというもの)で、妹は死者ではなく生者として出てきたが、寝たばこしていやがった。姉は寝たばこしないぞ、それはダメだぞ(その後、このペンションは変だ、ほらググったら出てくる! みんな早くここから出るのだ! と私は大騒ぎするのだが、誰も「変なのはお前だ」と言って出ず、私はなにかと戦うべくペンションの奥で、パラノーマルアクティビティばりの悪魔に出会って失神と同時にお目覚めという、ありがちなアメリカンホラーな展開)。

 年々、次女の面影が遠くなっている気がする。けれどよく考えてみれば、24歳で他界したのだ、私も三女も老けてきたが、こいつは老けないのだ。そりゃそーだな、って思う。