生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

歴史ものが熱い冬

 こんばんは、いや、ずーっと熱いんですけどね。塩鯖という字引きがあるから本当に便利。でも今は信長の野望をやってるからすごく無口。
 
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 これの前編を見た。あまりにいい話で泣けた。ドラマはあくまでドラマであって、史実ではないのだけど、史実とかけ離れすぎていなければいいんじゃないかと思う。人の想像力って、未来の希望のためにあるんじゃないかと思ってるんで私。全然違う話だったら「ぇー…」って思うけど、壬生義士伝とか「うん、でもあれはあれでよくできてたし、大きな出来事としては間違いじゃないからまるっとよし」って思ってる。

 話がそれた。前編は、江戸の水道を作った男の話。

 私たちが時間の長さを意識するときっていつだろうって考えてみた。自分が死ぬのは何歳ぐらいだろうか、って考えるときかなって思う。平均的に生きたとして、ざっくり70~80年。1977年から2047~2057年ぐらいまで生きるわけ。車は一家に一台だった時代から、今や一人一台かそれ以上の家だってある。40年でこの変わりようだ、あと40年経ったらどうなるのかもうさっぱりだ。

(話はそれるが、私はずーっとなんで車産業ってここまで時代をけん引してきたんだ? って考えていた。移動の手段としての可能性の拡大だけが理由だろうかって。そりゃあ、車を偏愛的に好む人たちもいるだろうけど、フェラーリが愛好家に売れたからって世界を引っ張る産業にはならない。ならばなぜか。車はそれまでに絶対的だった時間を短縮する可能性を持っていたから広がったんだろうって思う。馬で何日もかかるところが、鉄道なら何時間、車ならさらに出発や到着の時刻まで調整できる。そして物や人が運べるものだからなんだろうね。人間は時間だけはどうにもできない。短縮することばかりに集中した時代だったのかもしれない。けれど、これからはきっと、時間感覚がもっと変わってくるんじゃないかと思う。正確には、時間そのものは変わらない。1秒の長さが変わったりはしない。富=貯蓄額ではなくなるだろう、という話のように、時間の概念も、長い短い、早い遅いで善し悪しが決まる時代は終わると思う。その代わり、今までは時間をかけるところじゃなかったようなものとか、あるいは時間の過ごし方そのものとかが進化してくるんじゃないかと思う。例えば、移動時間をめっちゃ優雅にすごす選択肢が増えるとか、まぁ、リニアができたりもそうかな(時間超短縮)、あと「いかに人生を過ごすか」みたいなことが、一般的に教育的に入ってきそうな感じ)

 私たちの時間の感覚はそんなものだ。で、江戸時代。江戸時代は200年ほど続いた。けれど今の私たちにとっては江戸って過去、過ぎてしまった時代だ。200年続いた江戸時代の判が押されているが、400年ほど前、江戸が江戸でない時代があったのだ。あの湿地帯を前に、徳川家康は「大阪に匹敵する場所にする」と決めたわけだ。

 この壮大なシムシティ、パソコンなら時間早送りとちょっとした借金でできることだが、当時の日本でそれを成し遂げようという野望を抱くこと、それ自体がもう壮大だなと思う。そんな壮大な夢、今現在のんびりと乗っかって生きてきた人ならば抱けないと思う。何もかもが怖くて、抱いたとしても口にすることすらできないと思う。

 私は当然家康のことなんてろくに知らない。けれどひとつだけ言えることがある。家康が大きなことを成しえたのは、人を信じたからだろうということ。すべて家康一人ではできなかったことばかりだ。彼が周りの人たちを信じたからできたのだろう(首根っこを掴んでいたりはしただろうけど、そういうのもケースバイケースだ)。

 家康ばかりがすごいわけじゃない、けれど、そういう人もいて、こんな大きなものを残した、ということ。人間ってすごいもん残せる生き物なんだなーっていうことが、私に希望を与えてくれた。

 さ、晩御飯作って後編見るぞー。