生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

7月のお出かけが終わりました

 2日間の関西の旅、3日間の実家の旅が終わりました。疲れた。

 特に3日間の実家の旅は、直前まで塩鯖と2人で、両親合わせても中年と老人の4人でののんびり滞在の予定だったのが、妹ちゃんが3匹のカブトムシを連れて帰省したので(しかもぴったり同日!)、戦争のような数日でした。といっても、私はあまり子供が好きじゃないんでね、おおむね「うざいなー」が顔に出てたと思うけど。塩鯖は子供が好きなので一緒にわんさか遊んであげてて、仕事の日の3倍ぐらいは疲れたと思う(そして3倍ぐらいは楽しかったのかもしれない)。

 そんなこんなで7月の旅はとりあえず終わり。

 関西の旅はファミリーコンステレーションとオイリュトミーを体験する旅でした。

ja.wikipedia.org

 オイリュトミーは名前こそ聞いているけど、何が何だか分からない。動画もあってみたこともあるけど、ふんわり不思議なダンスを踊るものだろうか? ぐらいの認識でした。でも体験すると随分と違った。あれはもう、修行とか禅の世界の話。

 私が体験したことを簡単に表すと、肉体と精神は分離しているものだということを確認したのち、それを統合する生の営みのことをオイリュトミーと表現しているのだと思った。ごくごく自然に毎日やってる動きの一つ一つ、歩くにしてもかかとが持ち上がる瞬間、足の裏が地面を離れていく感覚、そして宙に舞うとき、着地の瞬間、足の裏が徐々に地面に着地してゆくときと、すべてにおいて意識する。それを感じながら動く。

 もっと分かりやすいものは、意識の腕(実際の腕ではない)が持ち上がるイメージを強く強く持つと、実際の腕もそれにつられて持ち上がるという訓練。とても簡単なようで、あるところからぱったりと腕が上がらなくなる。これが私の持っている「思い込みのライン」みたいな感じ。

 強くイメージすること、例えば新幹線が存在しなかった頃の新幹線。パーツのすべてをイメージ化できれば、それは現実のものにすることができる。それらを集めると理論上は新幹線が出来上がる、まるでイメージが引き寄せたかのように、ということだ。

 まぁ、飛躍しているところもあるので一概に「これが引き寄せだよ!」というものではないんだけど。

 それらがさらに展開すると、音だとか、色だとか、感覚も体で表現できる。開いて閉じる、収縮と拡張、夏と冬、明るいと暗い、様々な陰と陽がこの世界にはあるのだと感じる。そういうことを感じながら訓練するのがオイリュトミー。

 スイスの学校でオイリュトミー学んでいるご夫妻に会い学んだのだけど、本当にこれは面白い。自分の感情と自分の意志とは別々であるということと同じで、私の体と私の意志は別々なのだ。そのことに全然気づけないで生きてきたような気がする、、、と思ってふと気づいた。私が速く走れない理由。私は自分が俊足で走るイメージが全く持てない。それは、現実の結果から導かれた「私の足は遅い」であり、肉体の構造的に「足が遅い」わけではない。結果から導かれた現実の方を意識としては「正しい」と捉えているがために、俊足で駆け抜けることができないわけだ。

 っていうことは、塩鯖と話していて気が付いたことだった。やっぱり、多くの人が一度は「そうかも?」と思っていることだ。

 スイスのオイリュトミー学校では4年間みっちりオイリュトミーを学ぶそう。ご主人はすごく食べるそうだけど、すごく痩せていて、大丈夫かいと思ったけれど、奥様いわく「運動量が半端ないから痩せるんだと思う」と言っていた。この禅のような動作の繰り返しを、集中して何年か行うとそりゃ痩せるだろうよと思った。でも極めるってそういうことだよな、とも思った。

 シュタイナーの本は何度か読んだが、ぶっちゃけあのおっさんの言うことは分からない。やってみるのが手っ取り早いのだと思う。だけど日本では「学ぶ場」がないからスイスにいるんだ。当たり前のことなのにすごいなあと思う。

 ま、私もこれから未知の領域にチャレンジする予定なので、すごいことかもしれない。でも、チャレンジする前、そうだね、例えばヒマラヤに臨む直前の登山者は「すごいことに挑むんだぞ!」という気持ちはほとんどないだろう。ただ、挑戦できることの喜びにあふれているだけだろう(不安もあるだろうけど、不安が勝ったら挑戦はできない)。きっと誰もがそんな気持ちを抱えて、一生のうちにいくつかの体験をするのだろう。そしてそれが、その人の人生においてとても大切な「その人をその人たらしめる経験」になるのだろうと思う。

 とりあえずここまで。