生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

妄想代理人

 今塩鯖とこれを見ている。塩鯖が今敏監督と平沢進先生にハマっているのだ。OPが最高すぎる。13話の、いわゆる普通のテレビアニメ。


【平沢進】夢の島思念公園・Full(歌詞付き)~妄想代理人OP~

 まぁ、難解中の難解の部類だろうなとは思う。けれど、何度でも挑みたいと思うアニメだ。このアニメには何かがあると思わせる。それはきっと、見る人の心の傷と重なる何かがそこかしこにあるからだ。痛み、屈辱、憎しみ、悲しみ、恐怖、絶望という感情に共感することによって人はこのアニメとつながる。

 ネガティブな感情とポジティブな感情の違いは、主観だけだと思う。悲しみでつながっても、喜びでつながっても、つながりそのものは存在する。そしてどちらも最高に機能する可能性もあるし、最悪に機能する可能性もある。最高か、最悪か、さえも主観だからだ。

 けれど人はみな「快・不快」に関してはかなりの確率で重複する。正確に表現すると重複ではなく、見えない大多数の声に影響される。本当はもっと重複しないものだと思うけれど、私はこれを情報操作によるサブリミナル一致と勝手に読んでいる。要するに、「これはいいものだ(ガンダムのあのセリフ!)」と何度も言われると「いいものらしい」と思ってしまう心理だ。それ自体は良くも悪くもない。

 そろそろ時代は変わりつつある。誰かのいいものが私のいいものではないと、人々が気づいた。サブリミナル一致に飽きてきたともいえる。

 で、このアニメだけど、要するに人は「自分にとって都合の悪いこと、ショックなこと、受け入れがたいことからは逃げたい」と言うことだと思う。どこまでも逃げたい、できるなら全部なかったことにしたい。だから少年バット=マロミだったんだと思う。

 これはアニメ。作り話だ。監督が何を伝えたかったのかを考えよう。私は「生と死」「破壊と再生」「受け入れる勇気(一度今の自分が死に、新しい自分が生まれる)」だと思う。受け入れがたい現実から逃げようとしている人たちを見て、安全圏にいる私が思ったのは「受け入れて一度死に、そしてまた生きればいいのに」だった。他人事だから簡単に言える。でもこれを他人事じゃなくて簡単にできるようになれば、生きることが途端に充実するだろうと、私はなんとなく気が付いている。自分に言っているということだ。

 猪狩さんのような泥臭くて実直で素直な人間ほど、不可思議な方程式に騙されずに自分の声に従えることを、私たちはなんとなく知っている。それは映画エイリアンのなかで、あの賢いアンドロイドよりもリプリーのような生きる気力がある人間の方が強いとうっすら知っているのと同じ、DNAに刻まれている「そういうものなの」だ。

 このアニメの冒頭で難解な(意味不明な)方程式が描かれる。きっとこの方程式を解いたところで、このアニメの真実になどたどり着けない。なんでも解釈さえできれば、真実にたどり着けないというメッセージだろうと思っている。

 最初らへんに書いた「主観」について、要するに私たちは主観を通してしか世界を見ることができないということだ。私の主観を通して見える、私の世界。どれだけ塩鯖と同じ世界を見ていても、猛烈に分かちがたい溝がそこにある。でもいいんだ、私と塩鯖は別々の人間だから。同じ場所から世界を見ることができれば、それに意味と価値がある。