生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~世界に狂った色彩を~

塩鯖が休みの日は私も休みです

 昨日は映画デー。リドリー・スコットのプロメテウスと、ハイパーハードボイルドグルメレポートと、サイコパス(アニメ)を見た。チビたちのご飯を作りながら電話をかけてきた妹に「クライマックスなんだよ」って言ったら「ええな! 大人ばっかりええな!」と言って電話を切った。ええ、チビは先日の帰省でお腹いっぱいだよ。

 プロメテウスは雑なところもあったと思うけど、別にSFの粗探しがしたいわけではないからいいんだ。あのサンダーバードみたいな古いタイプの宇宙船や防護服も愛嬌だ。それより全体的な面白さのほうが勝っていたからいいんだ。

「神に人間をなぜ作ったのか聞きに行く」もうアホだけどロマンでしかない。ロマンはそもそもアホなのかもしれない。確率ではなく可能性のために何もかもをかけることがロマンと呼ばれるのかもしれない。ロマンだったらなんでもいい。私も相当アホだと思う。これは後日ちゃんと書くかな。

www.tv-tokyo.co.jp

 なんとなくアマゾンプライムビデオで目に付いたこれを見始めたら、あまりに面白くて目が離せなくなった。ヤバい人たちのヤバい飯を通して、ヤバい世界のリアルを見る番組、というだけあって、ガチでヤバい。

 私は何に対して衝撃を受けているのか。多分、命の重さの価値が違いすぎていることに衝撃を受けているのだと思う。自分が生きるために、誰かが死ぬこと。視野を広げれば地球上の誰もがそうして生きている。だけど直接手を下すことがないから実感せずに済んでいるだけ。もしかしたら、いわゆる経済が発達しているこの国では、それを実感しないようにするために、複雑な経済になったのではないかと思うほど(別の利点のほうが大きいことは重々承知)。

 多くの人が言う「生きるためだ、仕方がない」。間違いではない、間違いなわけがない。だけど、もっと別の道があると思える。実行する勇気がないから言うべきではないのかもしれないけどさ。

 多くの人がニコニコと話をしてくれている。でもどの人も、明日死んでいるかもしれない。日本みたいにじわじわと死ぬのではなくて、唐突に、不条理に、理由もなく、消えてしまうことがあり得る世界。今、同じ地球で起こってることだと思うと、クラクラする。

 人は生きているだけで、生きていることへの罪悪感を持っているのだと思う。

もの食う人びと (角川文庫)

もの食う人びと (角川文庫)

 この本も、ずっと捨てられずに持っている。もうかなり古い内容になっているけど、きっと手放すことはないだろうな。

 サイコパスは今2を見ているところ。冲方さんが絡むと(私にとっては良くない意味で)冲方節だ。テーマは面白いから見るけども、1の方はカウボーイビバップだよね。でも、とても面白かった。

雑に、いろいろと

 6月の終わり、実家に帰って法事に出ました。

cookpad.com

 うちの田舎では法事にお団子を作ります。おもりこ、と呼んでいます。私のなかで「これは美味しいもの」と信じて疑っていないので、持って帰り塩鯖に食わせました。で、塩鯖はこういった。

「これは、どう美味というのか?」

 言われてみれば、砂糖とだんご粉の味だけなので、美味しいものではないのかもしれない。

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 妹が出店したマルシェに行ってきた。まるっきり「お店屋さんごっこ」だった。けれど、妹が小さなころに書いた夢の絵を彷彿とさせた。うちの島の、港を降りたところにケーキ屋さんを開くんだと言っていた。まさにその感じだった。こうして夢は叶えられてゆくのかと思った。大盛況だったようです。

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 山口県周南市の野良犬が次々にワイドショーで取り上げられた。どうして突然そうなったのかは分からないが、野良犬や野良猫に関心が集まるのはありがたい。私たちがどれだけ歩いても、迷子が多い地域やもともと関心を持っている人にしか情報が届かない。やはりTVの力はすごいなと思う。

 報道を見ると、おおむね「常人の認識」だった。野良犬が集団でいると怖い、当たり前だと思う。

 私は犬は噛む可能性があると思っている。それは飼い犬であっても、野良犬であっても同じだ。特に保健所に出入りすると、首輪があろうがなかろうが、そこに差はあまり感じない。

 世間の関心が集まっている今、これからの道筋をしっかりと立ててゆきたいところ。頑張って香川県の行政さん(嬉しくない意味で周南市と縁が深い)。

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 自分の意向とそぐわない意見を出した人を、病的に悪魔に仕立て上げる人たちがいる。そういう人たちの心のケガの重度を心配してしまう。が、おそらく微々たるものだろう。私も昨日・今日と痛感したけれど、心のケガを悪化させるのは、自分自身であることが多い。

 私の場合、完璧主義であることと、高すぎる自尊心が邪魔をして、自らの自由を奪っている(雑なのに完璧主義って矛盾してるよね。こういう内部の矛盾もまたしんどくなる原因)。さっさと認めて、下手でもクソでもやろう、頑張ろうと腹をくくればいい。失敗を恥だと思うのもまた、過剰な自意識だからな。

 相反する意見に対して躍起になる人たちは、敵を作れば作るほど自分のケガを悪化させていることに気づけない。少しだけ哀れに思う。

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 有名ユーチューバーが傷害事件を起こしたかなんかで、そのお友達が出した動画が話題になったようだ。私はたまたま見た。とても正論だった。アメリカ人なのか、アメリカ育ちなのか、動画の最後に「恥を知れ」と言ったことが印象深かった。

 英語圏でのこの言葉はとても強い意味だったと思う。軽蔑の色が強い感じ。英語怪しいのでアレですけど。それぐらい「お前はいけないことをしたと自覚しろ」ということだと思う。

 別の動画で(筋トレのお兄さん)、チャンネル登録数が50万人もあって再生されていれば、お金は十分集まります、だから僕は儲けようとしなくてもいいんです、という話を聞いた。彼は「でも、再生されるだけの動画を撮り続けても、本当に自分の健康を高めてゆきたい人たちのためにならない。だから有料でもっと真剣な人たちにコミットするものを作ろうと思う」と言っていた。健康の分野で、再生されやすい動画と、よりプロフェッショナル寄りの動画は違うらしい。それもよくわかる(はい、三日坊主が通ります。私のようなのは食いつきやすい動画を延々繰り返すのだ)。

 人気=お金、人気=俺偉い、人気=権力、の人たちは淘汰されてゆくか、一発屋として忘れられてゆくだろう。その回転が恐ろしく速いのがYouTube。興味深い。

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 鶴瓶の家族に乾杯丸亀市の諸島にスポットが当たった。あんなところに伊藤若冲の絵があるなんて知らなかった。ゲストの青木さんが「島に来たら、島のものを食べてグイっと一杯やりたい」と言っていて、もしかして塩鯖もうちで飯を食う時はそんな気持ちなのだろうかと思った。島はいろんな意味でディープだが、それはなかなか味わえない。青木さんや鶴瓶さんの人懐っこさはすごいなあと思った。

 若冲を見に行きたいな。

鬱は甘え問題について(未完)

 タバコをやめるために、脱紙たばこしている私です。おはようございます。今やたばこも多様化しまくっていまして、アイコスやらプルームテック、べイプなど様々なインタフェースがあります。アイコスはタバコの葉を加熱して吸引するので紙たばことさほど変わりがないかと思うけれど、プルームテックやべイプは蒸気を吸うものなので副流煙が出ず、タバコ吸ってる感はとても少ないです。だけど、プルームテックはタバコの葉のフィルター通すので、微量ながらニコチンを吸引します。べイプは様々だけど今のところ日本ではフレーバー蒸気を吸引するもの、タバコの葉のフィルターはつけたりつけなかったりできるものになっています。

 で、私はプルームテックを愛用しているのだけど、微量とはいえニコチンがあるんだなあと感じました。昨日の夕方からプルームテックが切れていたんだけど、しっかりニコチン切れになってイライラしまくってる朝を迎えたからね。ああもう、ニコチン奴隷から解放されたい。解放されるにはニコチンと縁を切らねばならない。それがまぁ、辛いんだ……。ともかく、朝から当たり散らしてごめんね、塩鯖(帰ってきたらひたすら謝ろう)。

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 さて、鬱は甘え問題。20年以上も前の話題だよなあと思います。というのも、日本では1990年代後半くらいまでは鬱という言葉そのものが一般化されていなかったと思うから。鬱よりもノイローゼのほうがメジャーだったと思います。育児ノイローゼって言葉は子供ながらに聞いたことがあったし、今思えば母は10年ぐらいノイローゼ気味だったなと思います。

 これはGoogle先生が教えてくれたことだけど、ノイローゼって何かって言うと「神経症」症状のこと。ずーっと考えていて、覇気もなければ生きてる感じもない、ゾンビ的な状況のことを言うのだと思います。では鬱はというと、鬱はいろんな症状があるものの、とにかく自己否定が根底にあると思う。

 私は塩鯖の入院が長引いて入院鬱になったころ、しっかりノイローゼ状態になっていたと思うもの。毎日「米に虫がわいて……」って、どこに行ってもつぶやいていた。かなり怖い。塩鯖は入院鬱で鬼気迫る勢いだったので二人してかなり悲惨な状況でした。でも、塩鯖が退院して休職して(この時点で私のノイローゼは消えた)、私が仕事をやめて二人でポカーンとした時間を過ごしていたらいつの間にか治っていたけど。

 で、鬱が一般化した1990年代後半から2000年初頭まで、鬱を発症しては「鬱は甘えだ」とか「暇だから考えすぎて鬱になるんだ」とか言われた人は少なくないと思います。私もそう思っていたところはあるし、でも自分が鬱になったら「甘えとは違うと思うんだよな」と思うようになりました。

 それでも、一回目の鬱を克服した後は「鬱は甘え」の方向に転びました。なぜかっていうと、やっぱり結局のところ鬱を理由に「していない」状態の人を許せない、許しがたい気持ちがあったからだと思います。自分は我慢してやってるのに、鬱ってだけでやんないでいられるなんていいね、って思ってたってことです。全然人にやさしくない私、でもこれが事実。

 そして2度目の鬱のとき痛感しました。鬱は甘えじゃないわって。鬱は戦い。当事者は、毎日毎日見えない敵と戦っている。それはなにかっていうと、無意識的な我慢が作り出した「~あらねばならない」「~しなければならない」というイメージの塊だと思うんです。それを「お前の思い込みだ」という人もいる、事実そういう部分はある。けれど、思い込みだけで片付かないものがあるんじゃないかと、最近は思うようになってきました。

 社会からの圧力というのは、時代も大いに関係していると思うんです。では時代を作っているのは何か。時代は人が作るものです。文明開化も、欧米化も、量産化も、機械化も、全部人間が作ってきました。それによって生まれた副産物が文化や生活習慣、世論、時代の空気などなど。いわゆる「同調圧力」の巨大版が時代の空気なんだと思います。

 良くも悪くも世界は広くなったと思います。それはインターネットの出現もあるし、移動が速くなったこともあるし、国同士の壁が低くなったこともあるし、核家族化(都会に出て働いていた人が、そこで家を構えるようになったこととか)もあると思う。いずれにせよ、世界は狭くなり、遠くのことも身近に感じられるようになった。だから「世界は広くなった」ということだと思うんです。

 だから同調圧力のようなもの(実際には何て言えばいいのかな。社会学者とかは上手いこと言ってそうだけど)も巨大になっていったんじゃないかなと、それに伴い「鬱」という現代病が一般化し、社会の病のようになったんじゃないかなと思うんです。

 ああ、普通っていう病気かもしれない。普通なんて存在しないものに脅かされるのが鬱かもしれない。

 では今の鬱はどうかなっていうと、かなり一般化された病気だと思うんです。病気というのも微妙なほど、鬱は誰しもが経験する「ある心理状況」と表現したほうがいいのかもしれない。となると、医療はついに心の分野にメスを入れるようになったのか、とも思います(けれど、医療はどう頑張っても魂を救済することはできない。魂を救うのは人以外にいないから)。

魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)

魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)


 人は暇だから鬱になるのか? そう問われると、NOとも言えるし、YESとも言えると思う。暇っていう言葉は余裕と間違えられそうで違うな。時間とか余裕の問題ではなく、考え方の自由度が上がったというほうが近いんじゃないかと思います。人はより「自分」を考えるようになった。

 プラネテスにこんなセリフがあります。

「今、あんたの心はね でっかいものの見方を覚えたばっかりなのよ」

 鬱もこれに近いと思います。自分という人の見方を覚えたばかり。そんな人が、自分の闇を初めて覗き込んで、闇に飲まれてしまう状態。ええと、ニーチェもまた似たような言葉を残しています。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

 だから今も昔も「鬱」ってあったんだと思うんですよね。まぁそうだよね。

 今の鬱の患者は100万人以上いると言われています。これだけ多くの人が「自分」を見て闇に飲み込まれるようになったんだと考えると、うーん、精神の軟弱化とか、闇の深まりとか、忙しすぎる現代とか考えるけれど、やっぱり一つは「立ち上がり方が分からないままに生きていける時代」なのかな、とも思います。今までは宗教が立ち上がらせていた部分はあったんだよね。こう信じておけばいいんだと決めてしまうこと。でも今は宗教もボーダレス化してきたから、余計に何を信じればいいのか分からない。こんな時新興宗教が立ち上がるもんかなとも思います。

 で、結論にたどり着けない(笑)

 少なくとも私は、鬱は甘えから発症するとは思っていません。中には、鬱をサボる口実にする人もいるけれど、そんなことしたって分かる人には分かるし。社会に多様化を求める声に対して、私はイラつくことがあります。それは、少なからず私のなかに「我慢してきた私を評価してほしい」思いがあるからで、声にもならなかった頃なら「時代の闇」として閉じ込められてきたものだと思うんです。だから本当は社会運動にして昇華してもいいし、自分のなかでクリアしてもいいものだと思う。いずれにせよ、収まりきらなくなったから出てきた多くの人の声(現代だけでなく、過去の人たちの声)なんだろうなと思います。それが、今の鬱病の根っこには、いくらか存在しているんだと思います。

 それらを声にすることによって(それは文字通り”声”でも”文字”でも”芸術”でも)、時代はさらに進んでゆくんだと思います。時代は需要と供給や、産業だけが進めてきたわけではありません。見えない声が時代を塗り替えてきたところもあると思います。そしてこれからは、見えないものも、見えるものと同列で、時代を進め塗り替えてゆくんだと思う。そのためには、声になっていない声を、形にすることが必要なんだと思います。

 だいぶ散らかった。参考にした記事。

www.bbc.com