生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

2020年 あけましておめでとうございます。

 新年のご挨拶が遅れました。あけましておめでとうございます。塩鯖が仕事してた頃は、ほぼ平日と変わらない正月ですが、今年は塩鯖の実家で過ごすお正月でした。

 男の子という生き物はあまり年末年始を実家で過ごすことがないらしく、塩鯖は初めてゆっくり過ごすんじゃないかなと言ってました。私なんて用もないのに実家に帰ってぬくぬく上げ膳下げ膳で太ってたと思うけども。まぁ、家の数だけ過ごし方もいろいろということかな。

 地味に調子が悪いと思っていたら、ばっちり月ものが来てやっぱりか的な正月と仕事始め。毎月のことなのに、不思議なほどに毎月「こんなにしんどかったか?」と思う。もうこの生理現象もゴールに向かっているのだと思うと、不思議と名残惜しい、、、ことはない。この世界には経験しなくてもいいタイプの痛みがあると私は思う。

 ゆえに思考回路や感受性がいつもと違う状態で過ごすお正月は基本的に暇。テレビも動画もつまらない。だから塩鯖とどろろを見た。

どろろ (第1巻) (Sunday comics)

どろろ (第1巻) (Sunday comics)

醍醐の巻

醍醐の巻

  • メディア: Prime Video


 手塚治虫の作品は、幼い頃に読んだ三つ目が通るだけで、あとは火の鳥ブッダをチラ見したことがある程度。だけど三つ目のインパクトだけでも彼が超越した物語を描いていることは十分に分かっていたように思う。

 アマゾンの紹介を張り付けようと思ったけどこの雑さ、ちょっと違う気がしてならない。

戦国の世をたくましく生き抜くチンピラ泥棒・どろろと百鬼丸が、妖怪退治に大活躍!!

 でもストーリー的には間違ってはいない。現代的な解釈によって補完されたアニメでは、非常に複雑でむごさに意識が向く。百鬼丸は手足と顔、耳と目と鼻を持たずに生まれてきた。言い換えれば「五臓六腑と心」しかない状態だ。縁あって生き延び、鬼神を倒すごとに手や足を取り戻してゆくという物語。

 心しかない状態で生まれてきたにもかかわらず、五感を取り戻すたびに心が生まれてゆくような、不思議な感覚があった。

 私たちは当たり前のように五感を使って生きている。心地よい音だけを聞いて、心地よいものだけを見て、心地よい香りの中で暮らしているわけではない。だけどある程度の慣れと、たぶん体の機能的に備わっている「取捨選択する仕組み」によって、このやかましい世界でも心地よく生きられるのだと思う。だとしたら、取り逃している情報や、その情報から得られるはずの感動を、どれほど取りこぼしているだろうか。

 そう考えると、私たち人間という生き物はこの世界のほとんどのことを知らずに生きているのかもしれないと思った。知識ばかりを詰め込んで、知った気になっているだけかもしれない。身近なことについて、すべて説明ができるぐらいに「知っている」わけでもないのに、飽きて、こんなもんだろと結論付けて、軽く見ているのかもしれないと。

 あともう一つ、どろろの時代設定は戦国時代の少し前の日本。人の命が、人の手によって、あるいは自然の猛威によって、簡単に失われてゆく時代。今の時代から見ると考えられない。だけど確かにそういう時代があったから、今こうして簡単に人は死ななくなったんだろうと思う。現代では、生きるか死ぬか、そんな場面に出くわすことなんてほとんどない。だけど果たして本当にこれが正解だったのか、平和で安全に慣れ切ってしまっている私には分からない。だけどね、あの頃も今も、生きる意味自体はたいして変わってないんじゃないかと思う。

 どこかで今という時代を「生きることがイージーな時代」と評しているのを見た。確かにそうかもしれない。だからって、イージーな人生にはしたくないなと思う。

 かなり感慨深い作品だった。

仕事納めでした

 お疲れ様です。あんまり忙しくない仕事納めでした。いや、いろんな意味で常に緊張が伴ってるんだけどね。

 一つ下の投稿のSASUKEくん、愛媛に帰省してる時にローカル番組で見たんだよね。愛媛のすごい人みたいな感じのね。ぶっちゃけローカルな「すごい」は全く期待していなくって、近所ではすごいぐらいのノリだとばっかり思い込んでたらこのクオリティが出てきて驚いたんだよなあって、なんか疲れた頭で思い出した。

 そう、時代はそうなのだ。たいていのことは最新のiPhoneがあればできちゃうのだ。氷川きよしのロックもiPhoneで撮ったっていうじゃないの。ねえ、すごいわよねえ。

 でも私のようなただのおばさんは、普通に映ると普通におばさんがいるだけなんで、メイクやら衣装やら演出やらも超こだわってないと、ホームビデオになるんだけどな。編集の力で云々ってまぁまぁしんどいからな、マジで動画の編集ってしんどい(そして私はセンスがない)。

 あまりにもとりとめがないな。

 一時前はドはまりしていたユーチューバーの番組、今は毎週キングコングを時々見る程度になっている。

 ヒカキンさんはすごいんだろうが(あのストイックさは本当に感動するけど)、番組自体を見ようとは思わない。そもそもバラエティーどんちゃんした感じを常に見続けるのはしんどいもんだし。釣りよかさんも家を買っていい感じなのはわかるけど、なんだろうか、前ほどの面白さを感じない。わたなべ夫婦に至っては少々常識はずれな発言を何度か見かけて嫌気がさした(たぶん上から目線が気に障った)。一人キャンプ系もある一人を除いては全く見る気が起こらない(全く登録者が増えない素人キャンパーだけどすごく好き)。好きにやれよ(終わり)である。ちょいちょい出てくるせやろがいおじさんは、もうちょい調べてから喋れ(動物愛護にしろさくらを見る会にしろ、もうちょい考えたうえで喋ってほしい)。

 市場としてはまだまだ勢いがあるのかもしれないが、ぶっちゃけテレビとあんまり変わらない感じで「時間を割いて手を止めてまで見なくてもいい」と思ってしまう。これは私がBBAだからだろうか(海外ドラマは頑張ってでも見る。だって作りがプロだもの)。

 BBAはさておき、本当にこれYouTube界にとっても課題だと思う。そりゃ一定数いると思うよ、ずっと見る人。でもな、ドラゴンボールポケモンもワンピースも、目的ってなんだっけかな? ってなるわけよ。続けばいいってもんじゃないよなあって思わせちゃ、いくら人気があってもどうかなと思うのよ。そういう意味で、要するに、もう飽きたってこと。

 また面白いものがあればまたハマるだろうけどね。私、なんでも一気見するタイプだから。

 でもそんな中で、毎週キングコングは続いている。彼らの喋りそのものが好きだからであもるし、(一言余計でイラっとする)西野が言うことを聞きたい、梶原さんの無駄に長くて面白くない話もそこまで嫌いじゃないから。飽きないんだわ。ついでに、ノンスタの石田さんが出てたらカジサックも見ます(基本的に賢い人は好きだ)。

 その西野さんが少し前のキンコンで言ってた。今のYouTubeが取り込めてない層はどこだろうって。それは手を止めなくていい、そして手軽に聞けるものだ。だから音声のみのYouTubeってどうかなって実験してるそう。それは全然聞いてないけど、確かに私も音声で済むのは便利だなって思う。でも、何聞く? ねえ何聞く? ちなみに今聞いてるのはYouTubeエドシーラン。昔ほど音楽も聴かなくなったからな。ねえ、何聞く? ちょっとこれ読んだ人コメントで教えて。

 たまーに、ツイッターで肉声を聞く(ラジオとか歌とか)。みんな「だみ声」だの「ガラ声」だの言うが、私の「タバコ焼け声」に敵う人はいない。っていうかみんな「女性」の判別がつく声。超うらやま。わたしが喋ったらオスメスの判断に迷うような感じよ。ホントね、神様どうしてこんな低音の声の女子を作ったし。

 はい、大いに支離滅裂。年の瀬に向かって頑張ります。

何だかもう死にそうなほど忙しい

www.youtube.com

 BGMがかかっている間は遊んで良しとする。こんにちは。忙しすぎて免疫力がだだ下がりです。あれもこれも出てきてマジめんどくせええ。前の記事(12/4)から毎日予定があってだな、ここ5日間に至っては睡眠時間を削ればなんとか程度にまでなっている。なんでこうなったんだ。分からん。でもとにかくやらねばならないことが山積みである。

 つい先日は実家に帰っていました。輸出関係は私がお願いしたことだから、私も手伝わなければと思っていてね。でも父は「面倒って理由で断っていたら、なにも始まらないだろう」と言って、一手に引き受けてくれました。オレの親父カッコいいだろ?

 ま、できることはやるんですけど。例えば箱作りとか、年賀状作りとか、収穫とかサンテかけとか。

 塩鯖は美味しいものが好きなんだけども、肉とか野菜に限られていなくって、要するに「美味しいもの」ならなんでもいい。なので大量の野菜を食べ、かつ持ち帰ってきた。さて、オレに料理する時間はあるのか? 今日はマーボー白菜にする。無茶だとはわかっている。でももう頭が働かない(昨日は水炊き)。

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 妹ちゃんがイライラして電話をかけてきた。イライラの原因はちょっとやりにくいお客さんに出会ってしまったことから、私の何が悪かったんだろうか、という話だったけれど、小一時間姉と話してモヤモヤが消えなかったようなので、塩鯖に丸投げしたらすごく落ち着いた。塩鯖は魔法使いであった。

 塩鯖は自動車整備もできるが接客もできる。なので接客歴20年のアドバイスが魔法の種明かしなのだが、要するに「100人のお客さんがいて、100人を大満足させることはできない。だけど100人を大満足させるように最大限の努力と誠意をもって対応する。これがプロ。そして、何人かのお客さんがとっても不満を抱いて帰ったとしても、それが全部自分の非によって起こったことではない。だから自分を責める必要はないんだ」ということだ。もちろん、日々精進する気持ちと努力があって初めて「自分を責めなくていい」という言葉が出てくるわけで、「自分なりには超がんばったんです」であっても周りのレベルに達していないときや結果が伴っていなければ、「自分を責めなくていい」という言葉は出てこず、「もうちょい頑張れよ」になる。

 自分と他者を正確に評価できる客観的な視点が必要で、ある程度の大人(年齢的、経験的に大人)であれば身についている「客観性」で十分に事足りるはずだが、どこかしらに甘えやお気持ち主義がちらつくと途端にブレる。私もそうなりがちなので気を付けているけれど、ブレたり甘えが出たりしちゃダメなんじゃなくて、そう気づいたら中庸でいること、ニュートラルであることを意識して、必要であれば謝って(なんかやらかしたんならな)、でいいのだけど、なんかねえ、それでスネる大人が多いなと思う。

 妹ちゃんはやっぱり今日もごねていて、なんだかそれが母そっくりだなと思った。今きっと妹ちゃんは「姉は分かってくれない」と思っているだろう。でもそうであっても、姉は常に妹に寄り添っている。共有や共感は、同じ出来事に対して同じ反応を示すことではないし、同じように感情に振り回されることでもない。この出来事に対してこう思った、たったそれだけのことだけど、人の「こう思った」を100%そっくりそのまま「そう思う」ことが現実では無理だから、100%分かってもらう必要もない。自分の感情が立てた荒波は、自分が受け止めるしかない。それは、誰かに分かってもらうための荒波ではなく、自分が気付くべき感情の起伏のひとつだから。

 けっこうね、ただ単に、特定の人に「優しくされたい」人は多いんだと思うよ。難しいね、人って。でも簡単だよね、同じ人だからね。

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 新しいサイトを作った。こっちはやっぱりチラ裏的に使ってゆく予定。もうちょい記事が溜まったらその辺にリンクします。