生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

8月の帰省から帰りました・七つの習慣

 塩鯖の実家に帰ってきたよ。塩鯖の検査結果は良好(少々血圧が高い)。おおむね生活が性に合っているんじゃないかとのこと。それは嬉しいねえ。こんなにハードな毎日なのに(涙

 初日は病院だけで終わり、お義母さんちで思う存分のびのびとした。二日目はお墓参り。早朝に行って1時間みっちり掃除させていただき、帰省のご挨拶をしてきた。そして三日目はお義母さんちの玄関にセンサーライトをつけて、ちょっと便利にしてきた。

 この三日間で3杯のうどんを食べてきた。

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 大満足でございます。

 わたしとお義母さんの性格は全く違う。私は根に持つタイプでネチネチしているけれど、お義母さんはさっぱりしている。無類の子供好きで、その子供の定義に私も入るらしく、まったく子ども扱いしてくれるので遠慮なく甘えてしまう。

 といっても、ただ体よく甘えているだけではない(もちろんだよ)。よくよくじっくりお義母さんの人生を想像した時、その人生を歩んだうえで、あらゆる困難を全部引き受けてその性格なのだと思ったら、尊敬しか残らなかったんだよね。

 もちろん、自分の母親に対しても尊敬の気持ちはある。けれども、けれどもだな、いまだに「母と娘」の力関係があるような気がしてちゃんとしなきゃと頑張ってしまうのだ。完全に私の問題なのだけれども。父に対してはちょっと違うけれど、一緒に仕事するようになって「あれ、ちょっと違う」と思い始めている。まぁ、その「ちょっと違う」はわたしの思い込み、子供のころのわたしの視点(フィルタ)から見た父と、今の父が違うってだけの話なんだけども。

 年を取るっていいなと思う。いろんなことが、いろんな風に、幅広く見えてくる。とてもやりがいを感じる。

cimacox.hatenablog.com

 これ、いつ読んだんだっけなと思ったら2013年だった。7年前かー。

 今読んだら少しは違うかもしれない。正直に言って、こういう内容のことを一冊の本にまとめるなんてことは到底無理な話だろうよ、と今は思う。

 七つの習慣に書かれていたことは、100%事実だろう。この作者にとっては。だけども、読む側からすれば100%であることはほぼない。そもそも、自己啓発本なんてものはそういうものだ。

 私が占いやら自己啓発やらを読み漁っていたのはなぜだったんだろうかと思い出している。たぶん、自分を知りたかったんだと思う。自分を知ったら、もっと上手に自分を活かせるんじゃないかと思っていたし、人生ももっとうまくいくんじゃないかと思っていた。そのためには、今の自分じゃない自分にならなければならないとも思っていた。

 でも、それは大いに違った。だって、この世界に私の役割を果たせる人なんて「私」しかいないから。そして、ほかの誰かになり替わったところで、そこにはすでに元祖がいて、後釜なんて必要ないんだから。

 そういうわけで、帳消しにしたい黒歴史も、40年近く根に持っているあれこれも、全部ひっくるめて「全部私です」って引き受けて、本気で「この私でなにをしていこう」って考えることにした。

 成長過程で(たぶん思春期ぐらいに)一度ぐらい「客観的に自分を見る」ってことをやるんだと思う。そして「なんだこのクソみたいな社会」とか「うんこみたいな教育!」とか「つまんねえ学校」とか「くだらない同級生」と思うんだ。でも翌日ぐらいには「自分なんて無力だ」とか「存在が無意味だ」とか「どうせ私なんて」と、エヴァのシンジくんごっこをしたりする。この情緒不安定さが思春期だと思う。

 でもね、その頃って生まれてたった十数年しか経っていないわけで、全然経験値が不足しているんだよ。だから全然あてになんないの。っていうか、その程度の経験で達観できたら逆にすげえ。なんだかんだいって、大事に育てられてきた年代なんだからさ。

 でもこうやってこじらせたまま大人になって、終わらない思春期をずーっと続けちゃって、30歳ぐらいでガーンと「人生の責任は、自分しか負えないんだ」と思い知ってからが本番なんだと思うんだよね。

 ここでどれだけ素直に人のアドバイスが聞けるかが大事になると思う。ここには自己啓発本の類も含まれる。そう、私が七つの習慣を読んだ頃ですよ。こんな風に斜に構えて「宗教が違う人の言うことなんてわかんなーい(要約すると「分かるように書いてないからわかんなーい」というワガママ)」とか言ってると変われないんだよ(笑)

 ま、変らなくてもいいんだよ。そのまま生き抜く人だっているし。でも私は、もうちょっと自分という乗り物を乗りこなしたいんだよね。死ぬまで乗り続けるんだから。

 そうするには、まず何が必要か。いろんな人の経験を参考にする。それもアリだろう。でも一番大事なのは、自分で考えてやってみて、失敗でも成功でも繰り返すことなんだと思う。自分に経験がないことを、本や誰かからの話で学ぼうと思っても、自分に経験という引き出しがないんだから、本当の意味で実にすることができないと思うんだよね。だから、まず経験してみること。そして困ったら、誰かの話を聞いたり、本を読んでみたらいいんじゃないかと思う。

 私、こういう本しこたま読んだな。先に頭に入れてしまった(実際は見下していたから頭に入っているとは言い難い)。若いうちに経験しておけばよかったなあとちょっぴり後悔しているけれど、たぶんあの頃の私に言っても聞かんかっただろうから、これでいいのだろうな(笑)

7月が終わる

 もう7月が終わる。はてなブログナウシカで止まったままだったことに驚いている。忙しいような、忙しくないような。一日の時間コントロールが上手にできない感じが続いている。

 といっても、朝は6時半から仕事が始まり、10時ごろには帰るものの風呂と一息ついていたら昼ごはんタイム、2時間弱の昼寝後に午後の部スタート(だいたい14時半くらいから)の17時ごろ帰宅。風呂と晩ご飯で19時半ぐらいになり、20時ごろからはもう寝ようとする。そんな暮らしを繰り返している。

 長い梅雨のおかげで(7/30の午前中に梅雨明けたー!)、カッパ&長靴生活もうんざりしております。雨が降って涼しいならともかく、雨が降って30度超えているんだから死にそうだよ。長靴ってね、外からの水は防いでくれるけど、蒸れてひざ下がぐっしょりするんですよ。この不快さったらもう。

 みかんのお仕事は主に摘果、その合間に防除(私たちは苗木オンリー)、除草剤。雨のおかげで草の勢いもみかんの勢いも半端ねえ。これで8月一切雨が降らなかったらヤバいので、ときどき降ってください。あんまりこの願いは聞き届けられないんだけども。

 産直アプリを2つ入れてみた。食べチョクとポケマルである。特に出品する予定はないが、出品している人たちの投稿を見ているといろいろ勉強になる。でも、一番「やっぱりそうか」と思ったのは、利用者の一人がつぶやいていたことだった。(食べチョクとポケマルの違いは「無農薬表記」。食べチョクは表示しない、ポケマルは表記を禁止しないそうです)

 そのつぶやきでは「農家さんによって、届くものの考え方の違いからか、クオリティが違う」というもの。どうやら、試作品のような野菜が入っていたかと思えば、贈答用ですかレベルの美しい作物が届いたりとバラバラらしい。

 私はおおむね個人の自由にすればいいと思っている。だけど私はシビアなほど選んで買うだろう。だって買うのならば、真剣に作っている人の”作品”を買いたいもん。素人レベルでいいなら自分で作るもん。

 農作物は作品だと思っている。うちのみかんだって作品だ。どのレベルまでを作品と呼ぶのかは個人差があって当然だろう。私はスーパーに並んでいるものも”作品”だと考えている。そのレベルのものしか欲しくないということだ。

 でも、もらうものは別だ。うちの実家もいろんなところから、いろんなものが届く。通年行われている物々交換としてスイカ、ナシ、リンゴ(リンゴ製品含む)、レンコン、米などなど。これは物々交換だからかなり良い品物が届く(逆にうちのみかんで大丈夫かと思う場合もある)。でも親戚やお友達からは山菜や磯遊びの産物、家庭菜園(といってもかなり広いそうだ。もともと酪農・肉用牛農家だから広い土地があるのだろうと思う)のものが届く。レアなものも多いのでありがたいし楽しい。

 それはそれ、これはこれ、なのだ。

 今までの産直は「とれたて新鮮! そして安い!」であればよかったのかもしれない。でも、これからの産直こそ品質を求めた方がいいんじゃないかと思う。農家さんたちの自己責任というのは、いささか無責任だと思う。

 そもそも、産直=安いも疑問だ。産直で見る限りで「これ、この品質だと安くないぞ」みたいなものは見かける。でも品質の良し悪しが分からない人にとっては「たくさんあって、価格が安い」ものが安いものだ。食べればわかると思うのだけど、それを単なる「当たり/外れ」だと思われるのも、なんか違う気がすると思ってしまう(お金を払ってまでロシアンルーレットするのかい、と思っちゃう。もちろん、シシトウみたいに辛いのがどれかわかんないとかあるとは思うけど)。

 知識なのか、それとも美味しさへの貪欲さなのか。私は貪欲なので価格と品質の折り合いがつかなければYESと言い難いんだけどな。

 そう、林ホルモンは必ずしも「すごくいい肉」じゃない。だけど手ごろで美味しい肉なのだ。すごく美味しい肉を食いたかったらひらいにでも行けばいいし、焼き肉気分を味わうだけなら焼き肉キングでもいい。そういう感じよ。でもこれ、個人の自由っちゃ、個人の自由だよねえー。

 ってことを、ごろごろ考えたりしてました。

 とにかく我らは美味しいみかんを作ります。今年も変わらず。

映画館でナウシカを見てきたよ(その他香港とかコロナ)

風の谷のナウシカ [DVD]

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 まったく、日本の宝だね。

 ナウシカ金曜ロードショーでしか見たことがなかった。映画を借りたこともなかった。ビデオに録画してセリフを覚えるほど見ていたからだ。

 あの年代には、初代ガンダムやAKIRAなどの色褪せない作品が多いけれど、私はやっぱりナウシカが一番好きだ。それは、今の今まで「分からなかったから」かもしれない。

 映画館でナウシカを見て、家に帰ってナウシカ原作を読み返した。そして生まれて初めて、この作品の全容が分かった気がした。

 私は水戸黄門があまり好きではない。スーパーマンスパイダーマンも好きではない。勧善懲悪の物語は、なにか大事なものが抜け落ちているようで好きではないのだ。

 でも私自身、物語とは勧善懲悪であってほしいと心から願っていたんだと思う。私にとって勧善懲悪はファンタジー、現実は分かりにくくて複雑で混とんとしているから、せめて物語の中だけはそうあってほしいと願っていたのかもしれない。ともかく、私は現実で善と悪を望んでいたんだと思う。だけど叶わないから物語にそれを投影した(期待した)。でも期待通りだとつまらないと思っていた、ということだ。

 ナウシカの原作が分かったと思った瞬間から、この世界で起こっている現実のあれこれがとてもシンプルに思えた。すごく単純な欲求が数多あるから複雑に見えるだけで、たぶんそれほど複雑でもないし、難しくもないし、理解できないほど崇高でもない。

 原作のナウシカの中で、ナムリスの言葉が好きで何度か読み返した。ナムリスはナウシカを偽善者だとは言わなかった。偽善者とは、偽善を働いていることを知っていて振りかざす者を言うのだと思う。だとしたら、ナウシカは偽善者ではない、どちらかというと狂人だ。

 誰かから見た誰か、誰かから見た世界、このすべてが不調和なく描かれているのが原作だと思う。それって相当にすごいことだ。


 映画版のナウシカは映画版のナウシカで、とても良い話だと思う。だけどやっぱり私は原作の方が好きだ。残酷で、グロテスクで、救いがない。だからこそ、光がとてつもなく強くて、生命は恐ろしいほど力強い。

 希望の光とは、きっと形のないものなんだと思う。ナウシカたちが憧れていた、清浄の地。それは誰も見たことがなくて、誰の心にもある。そこを目指すことが「光」なのだとしたら、墓地の崇高な過去の亡霊は、人類の両親が生み出した呪いでしかない。なんて壮大で、尊いお話なんだ。

 でも、そもそも人は闇なんじゃないかと思った。人として生まれてきたことが業というのは、仏教かなんかで見た。闇の中で清浄の地を目指して生きること、それが光だとしたら、私たちは常に闇の中にいる。だから闇を隠す必要なんてないと思った。劣等感も、意地汚さも、無知さも、誰もが持っている。その中で、時にはダークサイドに落ちながらも、やっぱり清浄の地はあるんじゃないかと信じようとすることそのものが光ならば、誰もが光り輝いている。

 絶望という闇の中でも、生命を肯定することが、光を生むのだと思う。

 そういうことを考えていたら、塩鯖が私のことを「すごく優しい」と評する理由が分かった。塩鯖の闇はとても深くて狭くて真っ暗だ。そこから見れば、私のぼんやりとして無限にも思える闇の海は広くて明るくて慈悲深く見えるだろう。

 分かりやすく言うと、私は自分に甘いから人にも甘いってことですわ。たぶんね。

 農業を始めて良かったなあと思うことのひとつには、私はなんてちっぽけな自然の一部なんだと思えることだ。みかん農家ができることなんて、みかんの木を守って育てるという、ほんの少しのことだけだ。ほとんどは天気と四季がみかんを育ててくれる。もっと言えば、虫や細菌がいてこそ植物が育ち、雑草ひとつだって時に木を守る。人ができることなんてちっぽけだ。

 でも、そんなちっぽけな仕事が、人間にとっては膨大な時間で、膨大な手間で、私は今、それをとても充実した時間だと感じている。

 人間の時間と、自然の時間は、いつからこんなにかけ離れてしまったのだろうか。いいや、違うな。人間という生き物は、自然から見れば一時の生物に過ぎないってことなんだな。だから、とてもおおらかな気持ちになれるんだわ。

 香港のニュースを見るたびに、複雑な気持ちになる。人権となはんだろうかと考える。今の時点では、人権とは国によって扱いも考え方も違うものだ。例えばインドのカースト制度を他国が「それは人道的にどうかしら」と言ったとしても、インドという国はそういう仕組みでできているんだから他国は口出ししかできない。その国の中で、国民の力によってのみ変えられるものだ。

 だけど香港は中国でありながら中国ではなかった。この歴史のいたずらみたいなことによって、今の香港は世界中に「人権とはなんだ」と問いかけているように思う。

 しかしだ。

 中国の貧しい地域の人たちは、それとは関係なく常に楽とは言い難い暮らしをしている。香港がどうなろうと、この人たちにとってはまるで関係のない話なのだ。このギャップがとても私を不安にする。

 それはコロナの感染者のニュースを見るたびに感じる違和感と似ている。東京は日本であって日本でないのかもしれないとさえ思う。日曜討論では「とにかく経済を回そう」という話をしていたけれど、個人的には人命よりも経済を優先しているように感じた。

 でもな、その経済を回す回さないの話も、東京のことなんだよな。地方はほぼほぼ関係ない。この人たちは、何の話をしているのだろうかと思いながら聞いていたよ。

 ああ、こういうスタンスが香港と中国本土との乖離(中国本土と世界との乖離ともいえるのか?)と似ているのかもしれない。もちろん、中国本土のことなんて全く分からない。だから中国の人たちがどう考えているかなんて知る由もないけれど、今世界は大きなうねりの中にいるんだなあと思う。

 言いたいことが言える、というだけでは、自由だ平等だとは言えない。相手の話をリスペクトをもって聞くことができて、違いがあったとしてもそれを認めたうえで、本当に選びたい道を選べるようになって、本当の自由と平等の時代が来るんじゃないかな。そしてそれは、けっこう近い未来じゃないかと思う。