生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

あれれー、もう一か月が経過しようとしている

気を抜くと本当に一か月なんてあっという間ですね。おはようございます。埃だらけのキーボードで入力しています。指先がもけもけになりそう。

デスクトップを開くとWindows11にしろと出てくるのですが、CPUが対象外らしくてアップデートできないのですよね。新しいPC買うかなあって思うけど、今PCあんまり使ってないしなあとも思う。このパソコン自体は十分使い込んだので未練はないけど、ワイドな画面が素晴らしきなので、やっぱり本体には未練がないな。でも、ソフトまた入れなおしたりするの面倒だな。面倒だーなー! っていうところで、パソコンの前らから去ってしまうんですよね。へへ。

ついに私もパソコンよりスマホタブレットの方が使用頻度が激増しているということですな。

そして使われなくなったデスクトップは、機会があるごとに使われようとするものの、どんどん動きが遅くなり(すでにその傾向あり)、Windowsでしかできないこと以外は使われなくなるのだろう。なるほど、今どきの子供がパソコン使えないっていうのも分からなくもない。

AIが人間の仕事を奪うと言われて久しい昨今、実は25年前に社会人デビューしたころから似たようなことを言う人はいて、やたらと事務処理をシステム化することを拒んだりする事例があった。あの頃のシステム化なんて、単純作業や繰り返し作業を軽減してくれる程度のものだったけど、それでも仕事を奪われる感覚を持っている人はいたということだ。

当時の私も、今の私も、基本的には性格が悪いので「簡単に奪われるぐらいの単純作業で給料もらえてうめぇうめぇって思ってるんだろうお前」って言ってやりたくもなったが、実際のところ現実はもっと残酷だ。そういう人達がもっとも苦手としている、考えること、感じること、それを表現することが、人間にしかできないと言われているのだから。

しかしこれは一概にその人たちが悪い、努力していないというものではない。実際に個性的であることより、画一的であれという教育を受け続けてきたのだから。そしてそれは、私でさえもそうなのだから。

だから近頃の子どもたちの教育を見ていて、うまく表現できないくらい大変だなあと思う。個性的であれ、模範的であれ、優しくあれ、配慮できる子であれ、物分かりのいい子であれ、、、いや結局どうなのさって言いたくもなる。そんな中で素直にコロナで学校休みになれば休み、課題が出れば家でやり、オンライン授業になればちゃんと出席する、そんないい子たちが増えていることが、おばさんはちょっと怖いです。

そう、そういえばね、先日Twitterで「松尾芭蕉の俳句を自分が作ったと言い張る子供8歳」のママのツイートがあったのよね。おおむね「子どものやることなんだから」とか「むしろ興味を持ってて偉い」っていう意見が多かったのだけど、私はそうではないんじゃないかなって思ったのよ。そういう子供ってね、びっくりするぐらい頭がいいの。頭が良くて、なにを親や大人が望んでいるかを察して探して持ってこられるの。でもそれがバレると怒られるから嘘をつくの。でも結局嘘ってバレるでしょ。で、怒られるでしょ。そしたらね、こう思うんだよ。「バレないような嘘をつかなくちゃ」って。だから嘘をやめないの。それが問題なの。

なんかそれが、うまく伝わってないように思ったなあ。小さな嘘ならいいじゃないとか、優しい嘘ならいいじゃないっていうのは、嘘がいけないことだって分かってる人には通じるけど、そうじゃない子もたくさんいると思うんだよね、近頃だからね。

っていう、思いついたことをだらだらと書いてみた。おしまい。

幸福論(のようなもの)

 普段からあんまり政治的な発言はしていないのだけど、これはちょっと思うことがあったので引用させていただいて、ちょっと思うことをまとめようと思う。

 SDGsについての記事で、私はこれが全てだ真実だとは思っていないのだけど、何某か納得するものもあって、さらに「ああ、そういうことなのか」って思ったことがある。

note.com

 上記の記事を(私流に超訳しつつ)簡単にまとめると、世界の金持ちが生命の危険を感じて声高に始めたSDGsだけども、そこで謳われた「誰一人取りこぼさない」というスローガンは格差の是正のために必要不可欠な要素で、長い歴史の中で初めて金持ちから言い出したチャンスである。未来でも今のような格差に苦しまないために、また人類が未来を生きるために、本気で取り組んでいかなければならない、というもの。そんなに長くない記事だから読んでみてほしい。

 これを読んで思い出したのが、大好きな吉本ばななさんの書いたエッセイだ。彼女がいつだかの何かで、桁違いのお金持ちのお家に行った時のことを書いていた。それはとても楽しい経験として描かれていたわけではなく、むしろ本当に深刻なこの世の暗闇を垣間見たような描写だった。

 これを読んだ時は「縁のない話だけど、お金持ちでも運命に絶望することがあるんだなあ」くらいにしか思っていなかったが、政治的な話題でよく出てくる「富裕層」っていうのは、そして上記の記事に出てくる「世界のお金持ち」というのは、おそらくこれぐらいの桁違いの金持ちのことなんだろうなと思う。

 で、こういう人たちが遊んで暮らせるような仕組みが今の格差社会と呼ばれるものだとして、それは良くない、富の再分配をするべきだってことになったとして、真剣にSDGsに取り組んだとしよう。果たして格差社会は消え失せるだろうか? 私は消え失せないと思うんだな。

 でも、もしかすると今よりは格差が縮まる部分ができてきて、今日明日を生きるのに食うのに困る人が減るかもしれないし、飢餓で死んでゆく子どもが減るかもしれない。清潔な暮らしができる人が増えるかもしれないし、命をかけなくても安全な水が得られるようになるかもしれない。それぐらいのことは、できるんじゃないかと思う。

 それって素晴らしいわね。じゃあやろうよ、ってなるよね。やったほうがいいと思うのよ、私ですらも。

 でもね、実際にやろうとすると先進国と呼ばれる国々が取り組まないといけないことが圧倒的に多い。当たり前なんだよ、水が多いコップと少ないコップ、同じにするにはどうする? 多い方から少ない方に注ぐんだもんね。そういうことなんだと私は思うんだよね。

 それって言い方は悪いかもしれないけど、いかに満遍なく施せるかってことなんじゃないかな。もちろん、金持ちばかりが施しをしたらいいじゃんって話ではなくて、私のような人たちも少しずつ未来のためにできることをしていこうってことなんだけど。そうしないとね、数が多い存在はそれだけで暴力ぐらいのパワーがあるのよ。

 目指しているのはコップの水が平等の世界なのだと思う。長い時間をかけたら達成できるのかもしれない。でも私は、少なくとも私が生きている間にその平等が訪れるとはちょっと考え難いのだよね。

 だとしても、だとしてもだよ、私はSDGsの取り組みは続けていくべきだと思っている。きっと私はどう頑張ったって富裕層にはなれない。庶民のまま生活や自分の楽しみのためにお金を稼いで、使っていくのだと思う。ならばね、そうした行動全て楽しくやりたいんだよね。

 一時期はどっぷり自己啓発にハマって、多少なりとも経済を回すことが正義だと思っていたけど、そうではないなと今は思う。

 言い方は悪いけど、どうせ富豪にはなれないんだ。施す側の人間になったふりして、浅はかに良さそうに見えるだけのことにお金も時間も使いたくない。できるだけ自分が快適に、気分良く楽しく過ごしたい。それは決して楽ばかりしたいってわけではなくて(私はすぐ楽をしようとするので気をつけねばならないが)、しんどいことも大変なことも全部含めて、好きな人と楽しく毎日を暮らしたいなと思う。

 ちょっと追記。自分のしたいこと、好きなことにお金を使ったり、経験を積んだりしたいっていうのは、自己啓発にどっぷりだった頃も言ってた。あの頃と違うのは、本気で私のしたいこと、積みたい経験に時間もお金も使いたいってこと。

 自己啓発とか、何らかの講座やセミナーって、すごくわかりやすい言葉を、「最小公約数みたいな、最大公約数の言葉」を使うんだよね。それを聞いてると、あたかもそれが自分の考えや思いなんじゃないかって思えてくるの。まぁいわば洗脳ってやつなのかもしれない。その洗脳が優先になってる間は、何をどうしたってダメなのよ。自分のしたいことがすり替わっちゃってるの。

 だから、その洗脳が抜けるまでは空回ると思う。でもそれでいいんじゃないかな。空回ったり、違和感持ったり、反発したり、そういう過程を経て自立していくんじゃないかな。そしてそれが意識できるようになったぐらいから、自分の人生が始まるじゃないかと思う。

 簡単にまとめちゃうと「一周回って大人の反抗期を終わらせてから思う、自分のしたいこと、積みたい経験」にお金も時間も使いたいよねって話。もちろん、そんな面倒な過程を踏まなくても分かってる人は最初から分かってると思うけどね笑笑

 それが現時点の私の幸福論かな。

自分のためだけの楽しいことがあったっていい

 昨日、移住の先輩のお家でお食事会をした。お料理上手のお二人が振る舞ってくださったお料理が美味しすぎて、私は多分相当食べすぎたと思う。

 今回は中華料理を持ち寄ったのだけど、見てこれすごくない? 私はお店に来たのかと思ったよ。紹興酒も色々あったし、本当に美味しくて楽しい時間だった。

 そこでご主人から質問があった。

何をしている時が楽しいですか?

 改めて聞かれると思い浮かばない。今の生活はちゃんと楽しいし、私は夫氏が元気でいてくれること、二人でキャッキャできることが一番の楽しみだし喜びだから、何不自由ないと信じて疑っていないから。

 でもよくよく考えてみれば、幸せとか楽しさって一つに絞らないといけないものでもない。私の楽しみってものがあってもいいんだよなあと思った時、浮かんだのは「書くこと」だった。

 実際にこのはてなブログという場所は、私にとっての思考メモだったり覚書だったり、心の整理をつける場所だったりする。公開しているもののアクセス数を増やしたいとは思わないのは、この文章が誰のためかって突き詰めていくと、私のためでしかないからだ。

 一時期爆発的に増えた情報系のブログは、はてなブログの得意とするところ(なのか、そういうユーザーのために変わっていった気もしなくはないが)なのだけど、ああしたブログはターゲットがいて、アクセスしてもらうことで報酬が発生したりもするけれど、基本的には「役に立つ」から使われるものであって、役に立たないブログは閑古鳥。

 ちょっと脱線するけど、私はもう辟易している。「役に立つ」ってことに辟易。というか、意図的に作り上げられたものに、そしてその浅はかさに、辟易しているのかもしれない。

 バズもブームも生み出すことができる。もちろんその通りだろうし、過去に大ブームを巻き起こしたものも、きっとプロデューサーなり仕掛け人なりの存在があったのだろう。今だってバズレシピのリュウジさんなんてすごいなと思う。

 だけどその劣化版みたいなものが、かなり、相当存在していて、そうしたものに出会うたびに、うまく言い表せないけどとっても疲れてしまうのだ。

 この疲れがなんなのか、まだうまく表現できる自信はないけれど。

 で、私のブログね。私のブログは完全に古き良き(?)昔の個人の日記ブログのまんまだ。以前「役に立たない」って言われたことすらあるこのブログだが、役に立っているのだ、私にとっては。

 無目的に、書き散らすだけ書き散らして、サーバーを無駄に圧迫し、得られるものは私の自己満足。ただそれだけの場所なのだけど、とても大切に思っているし、今後も大切にしてゆきたいと思っている。