
- 作者: 円城塔
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/04/06
- メディア: 単行本
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これを読んでいるのに邪魔される。ひとまず表題の一作は二度読めた。もうなんでみんなで邪魔するんだ。いとこが来ていたんだが本を読むタイプじゃない。だから「ええよ、読んで読んで」というけれど、そこで話しかけられると読めないのだよ! といっても本を読まない人にこの言い分は通じない。酒が飲めないわたしに酔っぱらったふりをして、というのと同じだ。
ともかくサリンジャーは死なない。わたしは12年前小説を書こうと思った。そして小説投稿サイトでさまざまな人と話し(チャットや掲示板)をし、文学について語った。自分は本を読んでいる方だと思っていたけれど、とても偏っているし世界の文学レベルになるとまるで手つかずだし、読んでいても身についていないことを知った。恥ずかしいけれど「春樹のよさが分からない」と言えなかった。だから良さが分かるまで読もうと思った。そして読んだ。彼のエッセイに出てくる小説まで全部読んだ。結果、春樹は好きになったが春樹が好きな作家の小説はいまいち好きになれずにいる。サリンジャーはその代表と言ってもいい。
サリンジャーはライ麦畑でつかまえてが有名だろう。14歳ぐらいの時に一度読んだ。屁理屈小僧の独白ですか、ぐらいしか思わなかった。24歳のころに「これは名作なんだ」と思って読んだ。やっぱり屁理屈小僧の(以下略)。ナイン・ストーリーなら短編だしと思ってバナナフィッシュを読んだ。ロリコン万歳バキューン☆。で? で? でぇ? いつもだ。あれから12年経っているが何度読んでも「で?」が抜けない。けれど確実に分かることがある。これは個人的な解釈だけれども「ないものをないと表現するために文章を連ねたら小説になった」という感じだ。だから読後感も「ない」のだ。だから「で?」で正解なのだ。バカボンのパパなのだみたいだな。うーん。
例えば「そこにあるコップを模写してください」なら簡単だ。上手い下手はおいといて、とにかく「ある」ものを「ある」ように描くのだから。これが「そこにない、手にしたこともないコップを模写してください」だったらどうだろう。わたしなら相当に時間をかけて「。」しか書けないかもしれないし、紙が真黒になるほど何かを描くかもしれない。そういうことだ。
で、だからどうだと言われると、特にないんですが。
わたしは芸術方面は疎いので良く分かってないけれど、シュルレアリスム、キュビスムを通り越して、その上にこそ「ない」が成り立つのではないかなと思う。他ではない何か、ではない。「ない」ものだ。「ない」というものだ。さまざまを通り過ぎた上の「ない」であるから「ない」ことに価値があることになるのだ。超古代のゼロの「ない」とはわけが違うのだ。
この読後のどうしようもなさは、サリンジャーでも円城塔でも同じ。すごいことだと思う。絶対に真似できないと思う。そして特に真似しようとも思わない。わたしの提出の形式はちょっと違う、それだけだ。サリンジャーは死なない。きっと、これからもずっと。