
- 作者: 綿矢りさ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/03/08
- メディア: 単行本
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ともかく恐いです。ちょっとしたホラー小説より恐い。それは身に覚えがあるからだということは百も承知だけども、改めて告白するとき何を前にしているか、が肝なんじゃないかな。わたしは「神様」と簡単に言うけれど、それは軽々しい気持ちではなくて、メッセージボトルを流す時のような気持ちのときに「神様」という。一神教ではまったく違う心持だろうと思う。
子供の頃は「怒る人」が恐いものであり、神様みたいなものだった。その人の前では悪いことをしてはいけない。そもそも悪いことをしてはいけないのだが、好奇心が勝ったときはどうしようもない。わざと残酷な殺し方で虫を殺したり、恐らく価値があったであろう漫画を焼いてみたり。そこに罪悪感がゼロではない。ただ、好奇心が勝っただけだ。でもそのゼロではない罪悪感はずっと残る。
トイレの懺悔室の恐怖はそれに近い。思わぬものが神の部屋にいたとして、そこから告白がとくとくと流れてくること、そこには自分の「懺悔」も含まれることを考えたら、憤死ではなく発狂すると思う。怖すぎる。人間は小さな罪ほど忘れないのかもしれない。
表題にもなっている憤死、は、どこか「かわいそうだね?」の「亜美ちゃんは美人」にも似た諦めとも承服ともつかない気持ちで読み終えたが、恐らく本来の「憤死」とは違う、もっと人生が軽い、というと失礼だけど、どっちもどっちの哀れみというか、つまらなさというか、くだらなさというか、うーん、一番しっくりくるのは嫌われ者同士だったという二人は、つまるところ表裏一体だということが、恐ろしい。けれどあまりにも日々体感しているので恐ろしいというよりは「そうだよね」の方が近い。わたし憤死していいのかしらん。
人生ゲームはつまるところラストの部分のためだけの序章に過ぎない悲劇、それが人生のような描かれ方だが、必ずしもそうではないということが書かれている。人生を人生ゲームのそれにあてはめても、結局ゴールはゴールだ。なにかを達成する、あるいは困難を乗り越えるのがゴールではないのだ。そう思うと怖くもなんともない。ただ、こんな死に方も悪くないと思うだけだ。けっこう温かな気持ちで。
一番怖かったのは最初の数ページですけどね。はい、おしまい。