生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

与えられる試練

 キリスト様ですか、みたいなタイトルっすね。おはようございます。たまには朝にも更新します。

 成人した人間はだいたい140cm~190cmぐらいのもんです。誤差50cm、たかが50cmです。でも降りかかる試練は大きさに関係なく、そもそも外見のサイズなんて外見のサイズでしかないんです。サルトル先生降臨。

 人生の上で降りかかってくる試練たちを「与えられた試練」とポジティブに解釈して「仕方ないや、越えられると思ってるから降ってくるんだろう」と思える人がどれぐらいいるでしょうか。宗教トリックにあるように「なぜ神は試練を与えるのか」です。でも私は神様なんて一人じゃないと思っているので「試練」そのものが「与えられる」ものではないと思っています。

 偶然はない、全ては必然だ、という考え方もとらえ方の問題でトリックだと思ってます。どんな点でも点であれば線でつなげるから。それが理屈だろうと屁理屈だろうと線には違いがないから。できあがった形状に美を感じられればそれは最高、それ以上ができていたら、それはサプライズ。

 芥川龍之介の名言に「運命は偶然よりも必然である。」というのがあります。私は彼の小説はあまり好きではないのだけど、この言葉は好きです。起こるべくして起こるもの、ととらえること、それは日本文化の「もののあはれ」につながるわけで、女の私は輪郭がぼんやりしているから、意識せずともしみこむのです。男の人はあらゆる線引き、枠付けをしないと思考が構築されないようだけど。それも体験してみたいなあと思うんだけど、そもそも、女に生まれた時点で「必然」であったんだろうと思います。

 どのサイズの人間にどのサイズの試練が降りかかるか、それが分かれば準備して待っていられるでしょうか。私は逃げます。臆病だから。だからいつも何か起こるとびっくりします。でも越えなきゃ前が見えないから、前を見ていたいから、越えるんです。そうしてきただけ。最近は、少々のことはよーく考えて笑うようにしているから、大人になったなと思う。今更ですか。今更ですよ。だいたい越えたものの大きさなんて、越えて、しばらく歩いて、振り返ってみなきゃわかんないじゃん。

 さ、働くぞー。栄養ドリンク飲んでおこう。だるい。