生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

桜と哲学カフェ

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わが家の桜が咲きました。桜子、初めての花をつける。ベランダで植木鉢に植えていますが、あんまり嬉しいので何をするにも桜を眺めつつ、です。こんばんは。

昨日は満月だったから、満月と桜と日本酒です。いやー、夜桜を家で見られるとはねー。嬉しいねー。桜子は塩鯖が選んだ桜です。2年目で花をつけてくれるんだ。嬉しいねえ。

植物ってすごいなあっていつもいつも思います。春が来たら伸びるんだよ。花をつけたり、新芽を出したりするんだよ。突然冬の気温になっても耐えるんだよ。すごいねえ。生きているんだ。

今年もデンドロビウムは咲いてくれそうだし、すでにクレソンは繁りまくっているし、ハオさんたちも花をつけている。今年も春が来たんだな。季節が移り替わり行くときの変化ってすごいですね。

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桜のシーズンの尾道に行きました。今回も哲学カフェです。今回は「疑わしきは罰せず、は可能か」というテーマ。私は聞くに徹すると決めていたので聞いてばかりだったけど、釈然としないまま終わってしまいました。そりゃ聞いてばかりだからさ。でも口を挟むと水を差すような気持になるので発言できなかったってのもあるんだけどね。こんだけモヤモヤするならなんか言うとけば良かったって思ってます。

そだな、いくつかの感想を。

あ、ファシリテーターさんがFacebookににまとめの記事を上げています。アカウントある方どうぞ。
哲学カフェ尾道 第6回 【「疑わしきは罰せず」は、可能か?】

疑う側だと「犯人はそいつだ、さっさと罰しろ」と思うけど、自分が疑われると怒りがこみ上げる。

疑う側=第三者であるから、正義感が働くのではないか

冤罪、冤罪からの警察、検察、裁判官の関係

復讐を許可すれば良いのではないか

私は人間ってとても不確かであいまいな生き物だと思っています。完ぺきではない。だから人間が作った法律も完ぺきではない。だけど完ぺきではない人間が正しくあろうとする姿だと思っている部分があるから、法律って秩序なんだと思ってるわけです。

法律は人を罰するためにあるものではない。法律は武器ではない。

でね、人間って不確かであいまいな生き物って書くぐらいですから、あんまりあてにしてないんですね、私は。だけど出てきた意見を聞いていると、みなさんすごく人間を(自分を)信用しているなあって感じたんです。罰する権利があるというかね。

悪いことをした子供を罰するとき、疑わしい場合は罰していいのか迷う

子どもとはいえ別の人に対して、いいこと、悪いことを決める権利があるんだって当然のように思っているんだ、って受け取りました(私の性格がひん曲がっているのかもしれない。子どもを持っていないから私にはわからない感情なのかもしれない)。

悪いことをしたから罰するという発想がすでに分からないもの、なんですよ。私は「ルール違反に対しての罰」だと思っているんです。だから殺人も子どもの些細な嘘も同じ土俵(子ども相手に裁判を起こすわけじゃないけど)。多くの人は違うのかな。まぁ今まで捕まったことがないからめちゃくちゃ外れてはいないんだろう。

良し悪しの判断をする権利ってどんな神様視点なんだろうか、って思うんだけど、たぶんこう考える人はすごく少ないんだなって分かった気がします。

疑わしい状況が消費の対象となる

大衆心理まで突っ込んでいくと面白かったのにな、って思います。突っ込めって? わたしゃ口下手なんだよ。次回は「差別」だそうです。私いまだに同和問題にケリが付けられていないんだけど、普通のみんなはケリが付けられているものなのかしら? 

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尾道は桜が満開でした。車も人も溺れるほどいました。今度は夜桜の時期に行きたいな。