生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

疲れてます(ずっとだね)

思い出したら書き始める。こんばんは。今日も暑いね。電気代が怖いよう。

塩鯖が入院してから早80日でした。長いねえ。

疲れているのは、塩鯖がいないからというのもあるけど、単純に暑いからです。暑い。ともかく暑い。日本は、世界はどうなってしまったんだ。外で働く人たちが蒸発して消えてしまうんじゃないかと思う。だけどまだ7月。梅雨真っ最中。マジかこれ。

前回の記事でえらく悲観的っぽいことを書いているけど、基本的に私は悲観的な人間なので、誇張でも何でもない。だけど楽しいことは楽しいし、笑うこともある。ごくごく普通のおばはんです。もうおばはんです。マジでおばはんです。

ええとね、いろいろ考えたんです。オンライン哲学カフェどうしようかなあって。疲れた頭で行われる判断がどれほどあてになるものか分からないけど、少なくともここんところの私は哲学カフェ関係の投稿を全く見たくなかったんです。なぜかな、哲学は元気があろうとなかろうと、人の心にあるものなのに。

たぶん全力の善意が辛いんです。良かれと思ってやってる、人に優劣はない前提で言ってる(優位だから言ってるじゃない、むしろ劣位だから言ってることのほうが多い)、超他人事で蚊帳の外だから言えてる。そんな風にしか見えなくて、ただただしんどかったです。

そんなことはないって頭では分かってんだけどね、なんだろうなあ、人間の力なんて遠く及ばないものを見続けていると、集団で求める「幸福」に何の価値も見いだせなくなったんだよね。

人は平等じゃない。

全ての発端はあれだろうなあという出来事はあるんだけど、それはまぁ個人攻撃みたいになるから書かないんだけど、いずれにせよサイトは閉じる方向です。すまん、関係者の方々。


世界中にはいい人と悪い人がいて、それは狭い日常でも同じ割合でいい人と悪い人がいるってことで、じゃあ私は人のいいところばかりを見て生きていこうとは全く思わないんですよね。綺麗事だけの日常もきっとつまんないだろうしね。だから目の前にある私の哲学を、ただただ研ぎ澄ませてゆく。できるのはこれぐらいだなって思います。

塩鯖が入院してから、谷崎潤一郎を改めて読んでいた。私は春琴抄が一番好きなんだけど、本当にあれほど美しく、変態的で、愛おしい。それでいて、とても純粋にストイックに「文学」であるんだ。すごいことだ。

いろんな文豪、文人がいた。山頭火のように拾い食いをしても、食っても食わねども生きた人もいれば、森鴎外のようになんでも消毒する怖がりもいて、宮沢賢治のように質素なメシ(ただし大量)で早死にした人もいる。長生きすればよい人生とも限らない、うちの祖母のように。でも、大量調理は味がぶれないのと同じで、長生きすればいいことも悪いこともたくさん経験してごった煮で、たぶん人間っていう限界のある生き物は死ぬ間際に処理しきれずに「おおむね良かったー」と思いながら旅立つんだろうから、そういう意味では長生きしたほうが幸せだと言えるのだと思う。

どっちがいいとかないんだな。でも、少なくとも私は自分が死ぬとき、邪魔にならない程度のお金をちょっと残すぐらいでいいかなと思ってる。