生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

コンプレックスの日本語訳ってなんだろうね

 今日は朝うどんからスタートです。うどん大好きエッセイストです。減塩生活し始めてから、香川のうどんが塩辛いほうだということに気が付きました。でも、減塩した出汁はきっと物足りなさを感じると思う。

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 せごどんを見ているので、大久保さんのことを考えることは多い。史実上の人ではあるが、私は西郷さんにも大久保さんにも会ったことはない。だからいつも勝手に想像して、こうだったんじゃないのかなあって感じ入ることしかできないのだけれど。

 大久保さんは、なかなか悲惨な死にざまであった。西郷さんの方が悲惨だったという人もいるだろうが、あれほどに誰からも愛された人がいるだろうか。そう考えると、大久保さんはまだ許されていない感が拭えない。

 大久保さんを考えたとき、コンプレックスが思い浮かぶ。コンプレックスがない人なんていないから、大久保さんだけに限ったことではないが、生涯越えられなかったのではないかと思う。同時に、コンプレックスなんて越えなくてもいいんじゃないか、という思いも浮かぶ。

 西郷も、大久保も、どちらも偉大な人物であることに変わりはないのだが。

 私は女なので、女性のコンプレックスに関しては普通に分かる。私自身は、コンプレックスが強い方だが、どちらかというとコンプレックスの陰に隠れてしまうタイプだ。人によっては行動することでコンプレックスを陰に隠そうとする人もいる。どういう方法だっていいと思う。克服しようが、共に歩もうが、それは個人の自由の部分だ。ただ、陰に隠れていながらコンプレックスを理由に人を羨み、足を引っ張るのだけは人としてよろしくない行為だと思っている。

 男の人のコンプレックスは、男ばかりの職場を転々とした割にはあまり分かっていない。でも女性よりも実に様々な方法で付き合ってている人が多いように思う。男の人はコンプレックスの陰に隠れてひっそりと暮らすことは、あまりできないのかもしれない。それは社会における男女の役割の違いか、遺伝子的ななにかかは分からないところだけど。

 コンプレックスは解消すべし、というのは誰が言い始めたんだろうか。解消せずとも、それなりに充実した人生は送れるだろうと思う。けれど、端々に後悔や未達成感を感じるだろう。しかしそれすら人生の苦汁のひとつとして飲み込むのであれば、それも良しではないか。けれど、人は人を羨む感情をもつ。羨んで愚かな行動をとることもある。それを回避するために「コンプレックスは解消すべし」とされたのだろうか。

 皆が皆、一様に愚かな行動をとるとも限らないのだが。でも大久保さんにやり過ぎた一面があることは確かだ。このやり過ぎが、彼のコンプレックスから来ているのかどうかは、誰一人知る由がない。

 コンプレックスをバネにした、という成功者の声が残っている。それはきっと事実だし、確かだし、真実だろう。けれど、人が生きて巻き込んでいく(あるいは巻き込まれていく)事情の中に、これだけが、というものは存在しないのだと思う。人や出来事は様々に関係し合あう。同じ出来事でも体の中で起こる変化も様々であるから、ひとつとして同じ人生が存在しないのだろう。だから教訓を得たとしても、誰かになることはできない。

 四面楚歌、という言葉を知っているだろうか。この言葉の語源は、とても悲しい。背水の陣とは全く違って、哀愁に満ちている。そして人生においてこれほど追い込まれることは滅多なことではないだろうなと思う。だから逆に言えば、コンプレックスなんてちっぽけなもので四面楚歌の気持ちになる必要はないわけだ。特段それを特別なものとして扱わず、開示することで信頼が得られるのであれば喜んで開示しようじゃないか、と思う。

 私のコンプレックスは、お察しの通り学歴、インテリです。なんかまだいろいろ超えてないから、上手にできないんだろうなあ。