生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~世界に狂った色彩を~

制作責任者(ディレクター)の素質

 おはようございます。夏です、夏。塩鯖がお休みの日は怖い話と決めている私です。しかし私は自分が思っている以上に怖い話が苦手、なのに怖い話が好きという、非常に面倒なタイプだと知ってます。

 自分が思っている以上に、っていうのはいつも思った以上に怯えるからで、だいたい怖い話を見たり読んだりした後はしばらく後悔しています。だって怖いじゃん。感度が鈍いからたぶん無礼を働いているし。

 とはいえ、たぶん何度か見ている幽霊とか、不思議体験もあるわけで、その瞬間パニックになるのか、冷静に「あれー?」で済むのかは神のみぞ知る状態です。まぁ、ざっくり人なんてそういうもん、と思えばいいかと思いますよ、こうすればこうなるなんてルールはないと思っておけ!

www.tv-tokyo.co.jp

 Amazonプライムビデオでこれを見た。最初の2話ぐらいは正統派の幽霊系怖い話で、ほぼ6割耳をふさいで目を閉じていた。たまに目を開けて凝視している塩鯖を見て怖そうかどうか判断した(あんまりあてにならないのに毎回やっちゃう)。

 後半戦はX-File系、いや今時はトリック系といったほうがいいのか? 古いよね、トリックもたいがい古いよね。まぁざっくりそんな感じだが、森監督の言葉が真実すぎてチープさがいい感じに誤魔化されている。1990年代後半から地味に続いている、サイコや多重人格(これは体重人格出ないよ)が出てくるサイコサスペンスドラマに似た感じ。最終話はスプーン曲げで終わる。

 森監督が最終話で語ることは、やたらと深い印象を与える。真実は一つじゃない、現実は多面的であり多様的であり、自分が伝えたいリアルはどの面から見たなんなのか。主役の二人は「そもそもテレビが真実を求めているのかどうか」と話す。そうそう、テレビは真実なんて求めていない。話題性と目新しさだけで、そのために平気で人の芝生を踏み荒らすという印象を私は持っている。踏み荒らさないにしても、伝えたいことと伝わったことが違うもの、というのは良くある話だ。それは民放でもNHKでも一緒。

 いつだったかこれを読んだことを思い出した。

note.mu

 今の時代は、自分で宣伝する人がすごく増えた。SNSを上手に活用すれば爆発的なアクセスや、あるいは店舗にきてもらえるかもしれない。けれどそうするには目を引く何かがいるわけで、手っ取り早くと考えると炎上やら激しい糾弾やら? いろんな方法はあるのだろうが、きっと「もっと人に見てもらいたいなあ」という地点の気持ちとは違う気持ちを発動させねばならないような気がする。それを怠ると(メディアの申し込みにおんぶに抱っこだったり、誰かのテンプレートを使った手法だったり、大枚はたいた集客云々だったり)「え、そうじゃないんだけども」みたいなことになったりもするんじゃないかと思う。

 ちょっと前までは、とりあえず売れればいい、有名になればいい、そして知名度も金も多少手に入ったら路線変更すればいい、みたいな印象が強かった。けれど最近は「売れなくていい」「このまま細々続けたい」という人も多くなってきたなと思う。時代が緩やかに変わってきているんだなって思う。いや、きっと昔からいただろうけど、そういう姿勢であることを見せない人が多かったように思う。その人たちが、一斉にではなく、口々にスタンスを表明するようになってきたと思う。

 だいぶ話がズレてきた。

 森監督が言いたかったのは、目に映るものに正誤の判断はない、ということなんじゃないかと思う。スプーン曲げでスプーンが曲がった、これリアル。曲がらなかった、これもリアル。現実、目の前にある現実。

 企画の骨子、根っこである「なぜスプーン曲げを撮影するのか」ということをどこまで掘り下げられるのか。マスコミにしろひとりの人間にしろ、正誤の目で見ると真実が曇る、ということを言いたかったのだろうなと思う。撮影前に掘り下げしてたら哲学的なラビリンスに突入しそうだけど。世の中をニュートラルな目で見るとか、自分の思っていた形に執着しないで中心だけ見るってことは、そう簡単ではないんだなあって思う。 

 攻殻機動隊の映画、SASかな、VRバーチャルリアリティ2chのようなシーンで「ソースを出せ!」みたいな罵声が飛ぶシーンがある。いつかそうなるんだろうなあって思ったけど、最近その時代は来ないのかもって思ってる。ソース(事実や根拠)なんてどうでもよくて、一緒にワーワーキャーキャーできればいい人が、思っている以上に多いんだろうなって思う。たぶん実際に顔を合わせると、一点の怒りだけが一致しているだけの、年代も性別も趣味も人間の系統もバラバラで到底一緒にワーワーキャーキャーできないような人たちの集まりが、ネットの中では一緒にやれる、みたいな感じ。

 こうした人たちが悪いとかいいとかではなくて、ずーっと、ずーっと、井戸端からテレビ、ネットの掲示板、SNS、と遷移する中でもずっと変わらずにいるんだと思う。それこそ、パレートの法則だ。この絶対比率は変わらないわけだから、数の増減はあんまり関係なくて、ただ「いる」ということ、そして時に数は暴力にも集団意思にもなること(一揆や集団ヒステリー)を示しているんだと思う。

 きっと塩鯖にこの話をしたら「昔からいるじゃん」と一蹴されるだろう。

 私のような振り回されやすい人は「外野の声にも応えねば」と大きな勘違いをして苦しむ。塩鯖のような目的を見失わない人にとっては「外野は自分の目的を達成するため」に存在しているから、その地点では振り回されない。

 このブログの締めが思い浮かばないから塩鯖に聞いてみた。「自分の目的とその達成のための行動を、きちんと切り分けられてるってすごいね」って。そしたらこう言われた。

石川啄木と一緒」

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

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