生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

怒涛の週末とルーキーズ

 おはようございます。週末は脱走犬と保護犬のために走り回っていました。いや、犬に頼まれたわけじゃないんだけどさ。あいつら能天気に「ごはんちょーだい」「撫でて撫でて」と寄ってくるが、面倒をみられる人がいないと分かると、いきなり2週間の命になるわけですから、そら血眼になって城跡にも登りますよ(車で)。

 今回はありがたいことに脱走犬も見つかったし、保護犬も飼い主さんが見つかったので良し。けれど釈然としないことがある。脱走犬の飼い主さん、探した探したというけれど、人のいないところにフードも持たずに探しに行ったり、近隣のお店には内緒にしてたり。つい「戻ってきてほしくないの?」と思う。けれど多くの飼い主さんがこれだ。探したとは言うけれど、周りの人は誰も知らないことが多い。

 今回はメンバー出動なので遠慮なく近隣の産直という産直に(うどん屋よりもコンビニよりも、産直が多い地域だった。私は80円で大玉のキャベツ、50円ででっかい大根をゲットした)「犬が逃げました、見かけたら連絡するか、警察に保護を依頼してください」と言いまくった。来てたお客さんにも、お店の人にもチラシをバラまいた。だから、もしかしたら、飼い主さんはちょっと怒ってたかもしれない(でも飼い主さんの情報は一切書いていない。けれど、お前んちの犬だろう、お前んちの連絡先を書くのが筋だろうと思う)。

 心の奥底に「逃がしちゃった負い目」があるんだろうし、怒られちゃうという気持ちもあるんだろう。不思議なほどに、人は何歳になっても「怒られるのが怖い、嫌い、だからできる限り避けたい(嘘をついてでも)」なのだ。まぁ、そりゃそうなんだけどね。私だって怒られるのは嫌いだよ。でも、怒られたからといって、怒られたことを正せばいいだけのこと。拗ねたり腐ったりする理由にはならない。

***

 ルーキーズを見始めた。30代の私はあんまりテレビを見ない生活だったので、あの頃のドラマはほぼ見ていない(代わりに海外ドラマは見てましたが)。なのでルーキーズは初見。塩鯖が以前見たいと言ってたけれど「ヤンキーって不愉快だから嫌だ」と断ったドラマだ*1

 ルーキーズはけっこう最近のドラマだからか、やんちゃな子たちがそれほど悪い子でもない。懐かしいなあ、短ランボンタン、ドカンはいないのか、時代だなあなんて思いながら見ていた(長ラン+ドカンはもう少し前の世代だ)。

 熱血教師と挫折がきっかけで不良少年になった野球部の話し。「夢にときめけ 明日にきらめけ!」と迫ってくる熱血教師に若干のこっぱずかしさを覚えるが、その言葉に込められた意味を聞いたら「なるほど、大事なことだな。そして大人ほど忘れがちなことだ」と思う。

 この教師はとにかく熱血で恥ずかしい奴だが、人の夢を笑う奴を見逃さない。ああ、誰もがそうされたいと願っただろうな、と思った。だからこのドラマは流行ったのかもしれないって。

 誰だって一度ぐらい、本気の夢をバカにされて笑いものにされたシーンや、はなから「無理だよバカじゃない?」みたいな目を向けられたシーンを見ている。あるいは、実際にされたかもしれない。そこですごく恥ずかしい思いをして、もう二度と口にしないとか思うものだ。で、ちょっとこじれるとヤンキー化したり、引きこもったりする。ずっとその「悔しかった自分」の時間にとどまり続ける。

 これは大人だって多いことだ。夢を持っていたとしても、確実に食っていける未来(会社員とか、公務員とか)を選んだ人はいるだろう。そんな人たちが「そーいや、オレも夢あったよな。あの頃、こんな人がいて何があっても自分の味方をしてくれたら、もしかしたら頑張れたかもしれない」と思ったりしてたんだろうなと思う(勝手な見解です)。でも、私は思う。大人になったからできないんじゃなくて、大人になったからできるんじゃないかって。

 夢は、未来にあるものだ。過去はもうできあがっているけれど、未来は白紙、自由だ。本当の自由は未来にしかない。

 こう聞いたとき、あなたは今、自分が自由の中にいると感じますか? 

 そういえば、今日から俺はもドラマ化して流行っているそうで。あのギャグヤンキー漫画が実写で、受ける時代なんだねえ、と思うと、感慨深いを通り越して理解不能である。そのうち、セクシーコマンドーも実写化するんじゃないかな。CGでメソが見られる日が来るのかな(特に見たくはない)。

*1:ヤンキー更生物語が大嫌いだったんです。今はあまり気にならない