生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

おまじないを信じるかどうか

 おはようございます。飛び飛びだけど本体は元気です。

 あなたはおまじないの類を信じますか? って唐突に。私は好きだけどあんまり信じちゃいないんですよね。気休めぐらいにしか思っていない。その気休めというのも、それ以上頭を使いたくないから、もう考えない(思い起こさない)ようにするために、なにかをして「区切りをつける」ようなイメージね。でも最近はおまじないもしないんだけど。

 唯一続けているのが、枕を叩くっていうおまじない。早起きしなきゃいけないときとかにしてる。5時に起きなきゃだったら5回枕をグーでたたいて寝る、5時半ならグーで5回、パーで1回。どこで覚えたのか分からないけど、寝過ごすこともほぼないのだけど(おまじないしなくても緊張してたら起きる)、なんとなくやってしまう。

 人生で一度も寝過ごしたことはない、なんて超人的な事実はないけれど、朝が強い(代わりに夜はすぐに眠い)ので誰かに起こしてもらおうという発想そのものがなくて、自力で目覚めるのが当たり前、誰かに頼ろうとか、目覚まし頼みってこともなかった(目覚ましはかけるけど、目覚ましより早く起きるためにセットする感じ)。

 そのことから考察するに、要は意識にあるかどうか、そして自力で達成する意思があるかどうか(人頼みではないということ)、ということが大切なんだろうと思う。

 誰かが叶えてくれると思っていたら、それは自力で達成する意思があるとは言えないのだと思う。シビアといえばシビア。でも当然なのだ。私の人生、私の願いへの思いと同じだけ、ほかの誰かには誰かの人生や願いがあるのだから。

 見えないから、科学的な説明ができないから、ない、ありえない、信じられないとすることも選択肢の一つだと思う。だけど、幽霊が100%いないことを証明できないように、人間のすべてを科学が解明できないように、科学は万能ではないし、世界は「起こりうることしか起こらない」わけではない。

 そう考えると、見えないから、科学的な説明ができないから、ない、ありえない、信じられないと言い切ってしまうことは、とても子供っぽいんじゃないかと思えてきた。

 うーん、イメージとしては「私の中の”世界”って、ぴっちり何でも分別できるもんじゃないしな。よくわからないゾーン(不思議体験)もたくさんあるし、でもそれは解明されずとも体験として残っているし、そこのところは”不思議体験ゾーン”という状態のままでいいんじゃない? ぴっちり何でも分別して、白黒つけなくていい”余裕”としてそのままでいいんじゃない?」という感じ。っていうか、今までキリキリと考えすぎていたんだと思うんだよね。その「キリキリ」の中には「私の経験上」っていう前提があって、それがすべてだと思うことってある意味ではとても傲慢だし、っていうか「お前は神か!!」って感じだなって。

 そう思ったら「ありえないと決めつけることがありえない」のだし、じゃあお目覚めおまじないのところで書いた「要は意識にあるかどうか、そして自力で達成する意思があるかどうか(人頼みではないということ)」を前提に、なんでも本気で(全力で、全身全霊で、意識に刻み込む気持ちで)願って、達成するための行動をとったほうが、面白いことが多くなるじゃないかな、と思った。

 そうすることで被る損害なんてたいしたもんじゃない。意地でもなんでも叶えたいことならば、おまじないに託さず(あるいは託したうえで)達成に向けての行動をするだろうし。

 そうそう、おまじないといえば「両想いおまじない」はきっと今も昔も定番だろう。私ももちろんやったことはある。同じ男子に3年も執着した。でも一度として恋は叶わなかった。その理由は明白だ。私は彼の好みではなかった、ただそれだけ。おまじないで人の心は動かせない。そんなことはうっすら気づいていたので(でも当時は好きな人がいるという状況をキャッキャしたかったほうが強いので、叶わない方が楽しかったのだと思う)、恋が実らなくても傷つきもしない、なんとも人畜無害な「おまじない」だったなあと思う。ほんの少しぐらいは期待したけどね。でも、叶わなくてもがっかりもしなかったのが事実。

 そういう経験もあって、私はおまじないや呪術の類を(どんな些細なものであれ)人をコントロールするためのものだという人がいたら、私は全力で関わらないようにする。そんな発想自体が危険だから。人は人を思い通りに変えることなんてできない。もしできたとしても、それはとても不自然なこと。

 不自然には不自然な形で因果応報があって、それが「なんでいつもこうなるんだろう」につながってるんじゃないかと思う。それは「人を都合よく動かそうとすると罰が当たるよ」というものではなくて、もっと自然な、例えば私は包丁の使い方が下手なので刃先を歪めてしまいがちなのだけど、そんな風に「いつもこうなっちゃう」という、悪い癖、望まない癖、みたいなもんなんじゃないかなって思う。

 癖というのは人に教えてもらわないと気づけないところがあって、例えば私の爪を噛む癖なんて超意識してるから「ええ、ありますね」と思うけど、人と話をするときとか上ばっかり見ちゃう癖は教えてもらわないと気が付かない。教えてもらっても「私そんな癖ないし!!」と認めなければ、私の世界では存在しない。ただし、現実世界では存在する。私だけ知らない恥ずかしさ。

「人から教えてもらったこと(指摘されたこと)」は、悪意の塊でない限りは「あるもんだ」と思ったほうがいい。そして、その癖があるからこそ、私ならば「人と話すときに目を見て話せない人」→「落ち着きがない人」→「リラックスできない相手」→「人間関係苦手なんすよねえ(by私)」というやりづらさ、生きづらさにつながっているかもしれない。だから「まさかとは思うけど、可能性としてはゼロじゃないんだからカメラに向かって話してみよう(めっちゃ上見とるわ…)」という具合に、素直に受け入れて再確認してみるのもいいと思う。

 ちなみに私の上を見る癖は「頭が悪い人に見られたくないからちゃんと受け答えしなくちゃ」という焦りの表れです。落ち着きなくてサーセン。同時に、私は「受け答えがへたくそな人を頭が悪いと認識している」ということでもある。びっくりする。よくよく考えれば、誠実であれば頭の良し悪しなんてどうでもいいことなのに、無意識にめちゃくちゃこだわってるんだわ、私、ってことだ。

 こんな風に、一見するとどうでもいい毎日の澱のようなものがどんどん溜まって、関節がきしむような生きづらさになるんじゃないかなと思う。だからひとつずつ、丁寧に観察して、正していく(望んだ結果になるように努める)ことが、生きづらさをクリアにしてゆくコツだと思う。

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 私は大声ばかりの祖母が大嫌いで仕方なかったけど、でもやっぱり家族の一人で、血のつながりを感じていて、心底嫌いになれないからこそしんどかったのだと思う。母はとんでもなく嫌っているようだけど(本心で嫌っているかどうかは母しか分からない)、だから私まで祖母をとんでもなく嫌わないといけないなんて、きっと母も望んでいないし、私もそんな理由で人を嫌いたくはない。

 というわけで、「おかんは嫌ってるが私はそうでもない」という気持ちを認めたらかなり楽になった、というか相当楽になった。ずっと握りしめていた母への忠誠心、ではないなあ、母から嫌われたくないがためにやっていた、家庭内のいじめみたいなもん、そう考えようとクセづけようとしていた違和感が、私の家族に対する生きづらさのひとつだったんだなって思う。帰省も老人ホームに行くことも、全然苦じゃなくなった。

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 ひとつひとつ、丁寧にクリアしていけば、必ず生きづらさは減ってゆく。誰かを当てにして、誰かのせいにして、自分はかわいそうだと思っていたら、きっとずっと不幸のままだ。見えない力を自分にとって都合のいいものだと勘違いして心酔することが、気持ち悪いスピリチュアルってやつだろう。私はスピリチュアル的な考え方は好きだが、気持ちの悪いスピリチュアルにはなりたくない。地に足をつけて現実を変えてゆきたい。

 うーん、もうすでに実践している方もいらっしゃるけど、本当に見えない世界と見える世界と、統合して「より自分が居心地のいいように」暮らすことって、人生の本筋なんだと思うんだよね。それを伝えたいのかな、いや実践したいんだな。私は。

 ちょっと強引にまとめようとしすぎたな。今度きれいに書き直そう。