生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~世界に狂った色彩を~

自分より大事なものを持つ経験

 昨晩、ばななさんのnoteを読んでつぶやいたら、ばななさんご本人が登場して興奮しまくった私です。TUGUMIから人生のそばにいた物語を書いた人からアクセスが来るなんてツイッターすごい。

 誤解のないように書いておくと、ばななさんはあらかじめ「子どものいないご夫婦、またはほしくても恵まれないご夫婦を悲しい気持ちにさせる可能性がある」と前置きしたうえで書かれています。

 私は自分が子供を望んだのかどうかさえも分からない人ですが(たぶん望んでなかったんだよな。若かりし頃、周りが第一子を出産し始めるころに「自分のことに時間を割けないなんてヤダな」と思ったお記憶があるもん)、子供という存在が与える人生の変化って想像を絶するすごさなんだろうなと思う。そりゃ経験してないからわからんけど、すごいんだろうなって。

 私が唯一自分のことよりも優先しようと思ったのは塩鯖だけども、それも最初からそうではなくて、最初のうちは「自分の余裕を確保したうえで」だったし、それがままならなくなって機嫌が悪くなったし、でもそんなのお構いなく容体は悪くなったりするわけで、その時初めて「自分のことなんてどうでもいい」と思えた。そうなるまでに数年かかっている(掘り返して見ないで、めっちゃ「私可哀そう」って書いてるから(笑))。

 自分のことなんて二の次だと肌で感じる経験を、とても尊いものだと感じている(そんな塩鯖は今日から明日まで出張でござる)。でも本当にそうだよ。

 最近になってようやく「子供は尊い」とか「赤ちゃんは光っている」ということが分かってきた。あの柔らかで可能性しかない生き物は本当に素晴らしいと思う。でも、だからといって子供好きになるわけじゃないけどね。それとこれとは別なんだよね。

 例えばさ、アメリカンヒーローたちはすごいじゃん? アイアンマンもスパイダーマンバットマンもすごいよね。だけどあいつらみんな人間で、我らと変わらないわけだよね。そう考えると、我らも〇〇マンになれる可能性はあるってこと、そういうパワーは持ってるってことだよね。だとしたら、奴らが弱きものを助けるために、困ってる人を助けるために出動しているとき発散しているパワーを、我らは使っていないわけだ。

 ばななさんから頂いたツイートはそういう意味だと思う。パワーが余ってるんだ、だから使いたいんだけど「わたし、ヒーローじゃないから人助けとかしなくていいし」と思ってたらパワーの出所がわかんなくって「なんかやりたいんだけど、どうしたらいいかわかんない!」になり、それがストレスや生きづらさになってゆくんだと思う。「こうすればいいのに本当にばからしい」とか思うぐらいなら、やっちゃえばいい。それだけのこと。

 体に潜む力をどのように使うか、それは「好きなこと」である方がいい。好きじゃないと続けられないし、やり続けていると必ず好きじゃなくなるほどに煮詰まることがあるんだけど、好きであればそれも超えられる。場所に飽きることや、その場所でやりつくすことはあっても、好きなこと自体は続いてゆく。

 あるいは、「なんかやりたいんだけど、どうしたらいいかわかんない!」とき、体が勝手にやっちゃえるようなことや、自然とできちゃうことこそが、その人にとっての光(特技・才能)であることだって往々にしてあると思う。当たり前にできちゃうと、あんまり特技だと思わないだろうけどさ。

 私は今まで過剰に自分に重きを置いていたなと思う。簡単に言うと「わがままだった」んだと思う。そりゃあ、うまくいくわけもないし、生きづらいし、ストレスだらけだ。ついでに言うと、世の中はバカばかりだって見下していたら、もう本当に死んだほうがいいぐらい「この世でやることなんてねぇわ」になる。全くつまらない人生の使い方だった。

 誰かのためになるとか、人の役に立とうとするとか、人は一人で生きていけないとか、もう聞き飽きるほど(自分でも少々くどいと思っている)聞いて、考えて、「こういうことでしょ?」と思っていたが、それそのものが狭い認識で、かつ一方向からの考え方で、まったく我が事としてとらえていなかったんだなと思う(オレできてるから我が事にしなくていいし、ぐらいの驕りっぷり)。

 いろんなこと気づけて良かった。今までは自分の人生なのに端っこの方でひっそりたたずんでいただけみたいだ。道の真ん中に戻って歩かないとね。