生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

歩と飛車角、そしてモノサシ

 おはようございます。日曜日(12日)は実はかなり疲れていた。というのも、通常の倍量の仕事があったから。その理由がさっぱりわからなかったけれど、火曜日の出勤で先輩が全ての謎を解いた(なぞは全て解けた!@金田一)。

 私が働いているところは、ネット販売部門と店舗部門で分かれていて、ネット販売部門は現在2名。平日2名の休日1名体制。店舗は常時3~4名。ネット部門の人がいないとき、店舗の人がヘルプに来て作業してくれることになっている。

 今回、ごくごく一部の作業に変更が生じたため、ヘルプの人にレクチャーする暇がなかったので、作業工程の最後の部分だけ翌日に残してね、と伝えたのだ。するとどうだ、作業の半分以上が翌日に繰り越されてしまいましたとさ、という次第だ。

 この件について、伝達した側の人は「私の伝え方が悪かったのだろうか」と3時間ぐらい悩んでいたが、私としては伝え方が悪かったというより、受け取る側の想像力が、仕事の本分への理解が足りなかったことも原因だと思っている。

 またこれについての誤解を解く声掛けにも非常に気を使っていた。というのも、注意されると「怒られた」と認識し、それ以降の説明が入ってこないタイプの人なのである。だからなかなか正しい理解が進まない(凹んでいるから聞こえない)。凹むのはいいが、聞こえないのは困る。

 個人的には謎が解ければ作業量が多かったぐらいのことは仕事なのでいいやと思っている。ただ、店舗側の人たちは彼女と仕事をしているわけなので、様々な配慮や工夫がされているのだろうなと思うと、心労がいたたまれない。

 という話を塩鯖にした。すると塩鯖は言った。

「昔は向上心なり野心があって、成長しようという人が多かった。でも今は違う。『今のままでいい』と思っている人が多い。だから成長しようとしない、変わろうともしない。むしろ変わりたいと思っていない。個人の望みは『現状維持』。

 将棋でいえば”歩”だ。”歩”はどこまでも”歩”だ。”飛車”や”角”の器の人は、”歩”から上って”飛車角”になるのではなく、最初から”飛車角”なんだ。香車や桂馬も数少ない。歩を育てて飛車角にする時代はもう終わったんだ。

 企業がよほどの大企業で、ふるいにかけることができるほど新入社員がいるようなところでなければ、選ぶことなんてできない。新入社員が、歩か、香車か、桂馬か、飛車角か、開けてみないとわからない」

 確かにそうだなと思うことが増えた。これは、昔は良かったというジジババの愚痴ではなく、本当に心が病むほどの社会の問題だと思う。私はこの問題について、多くの人が恵まれた環境にいて、何もかもが与えられて当然だからこそ引き起こされた弊害だと思っている。もちろん良い部分もある。読み書きも計算もできるし、思いやりも優しさもある。助け合おうという気持ちもある。けれど、野心だのハングリー精神だのは遠のいたように思う。

 さらに塩鯖はこう続けた。

「上の人間が、そうした向上心のない人間をどうにかして育てなければならないと思い込んでいる限り、伸びしろがないと感じる。本来は未熟な人間が持たねばならない向上心や成長意欲を、上の人間(他人)がどうにかしろという仕組みが、上の人間を苦しめるし、下の人間をさらにダメにする」

 塩鯖は前の職場で、自己流のハウツーを部下たちに伝えるクラスを持っていた。一年かけてハウツーを伝え、最後になにを伝えようかと相談されたとき、私はスピリットだと言った。だって足りないのはそこだもの。技術やスキルがいくらあっても、何のために頑張るのか、どれぐらい頑張るのか、それが分からなければ持ち腐れだからさ。

 でも塩鯖は別の時にこうも言った。

「自分のモノサシから出ない人は成長しない。自分は頑張りました、自分はやりました、それはあくまで自分のモノサシであって、結果に結びつかなければ”自分は”なんて意味がない。仕事を自己満足のためにするのならそれでもいいのかもしれない。だけど、向上するには、成長するには、自分のモノサシを超えるときがある。そこでどうするか、どうできるのかが大切だと思う」

 今回の一件もこれに近しいものがあると思う。自分はこれで正しいと思ったのかもしれない。でも、職務を遂行できていないと気づいた時点で疑問を持ってもおかしくないのではないかなと思う。自分の中で解決できないものは、上の人間に聞けばいいんじゃないかな。私はそうしてきた。

 でもな、彼女は決して人として決定的にダメなわけではない。悪気もないし、悪意もないし、そんなにアホでもない。だからこそ、どう伝えたらいいのかとても困ってしまうのだ。

 私なんかは(性格が悪いので)知っているであろうことを何度も言われると「アホやと思うとりますか?」と言ってしまう。だとしても、正しく伝わればいい(自分も正しい解釈かどうかの確認がとりたい)と思うので、怒りもしないし落ち込みもしない(むしろ爆笑するかもしれない)。でもここで、笑えない人がいるのだ。

 先日見たこのツイートがまさにそう。ガイドしてあげる必要がある、「これくらいわかるでしょ」という感覚では解決できない。本当にここのところが由々しい問題になっていると思う。これは若い子たちだけの特徴ではない。同年代にもいる。

 自分はそうじゃないから大丈夫、関わらないから大丈夫、ではない。いつかどこかで、必ずこの問題に向き合う日が来る。そんなときに、人として成長するための突破力を、その出し方を、スピリットを、どうにかして伝えたいと思う。