生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家一年目~

映画館でナウシカを見てきたよ(その他香港とかコロナ)

風の谷のナウシカ [DVD]

風の谷のナウシカ [DVD]

  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: DVD
 まったく、日本の宝だね。

 ナウシカ金曜ロードショーでしか見たことがなかった。映画を借りたこともなかった。ビデオに録画してセリフを覚えるほど見ていたからだ。

 あの年代には、初代ガンダムやAKIRAなどの色褪せない作品が多いけれど、私はやっぱりナウシカが一番好きだ。それは、今の今まで「分からなかったから」かもしれない。

 映画館でナウシカを見て、家に帰ってナウシカ原作を読み返した。そして生まれて初めて、この作品の全容が分かった気がした。

 私は水戸黄門があまり好きではない。スーパーマンスパイダーマンも好きではない。勧善懲悪の物語は、なにか大事なものが抜け落ちているようで好きではないのだ。

 でも私自身、物語とは勧善懲悪であってほしいと心から願っていたんだと思う。私にとって勧善懲悪はファンタジー、現実は分かりにくくて複雑で混とんとしているから、せめて物語の中だけはそうあってほしいと願っていたのかもしれない。ともかく、私は現実で善と悪を望んでいたんだと思う。だけど叶わないから物語にそれを投影した(期待した)。でも期待通りだとつまらないと思っていた、ということだ。

 ナウシカの原作が分かったと思った瞬間から、この世界で起こっている現実のあれこれがとてもシンプルに思えた。すごく単純な欲求が数多あるから複雑に見えるだけで、たぶんそれほど複雑でもないし、難しくもないし、理解できないほど崇高でもない。

 原作のナウシカの中で、ナムリスの言葉が好きで何度か読み返した。ナムリスはナウシカを偽善者だとは言わなかった。偽善者とは、偽善を働いていることを知っていて振りかざす者を言うのだと思う。だとしたら、ナウシカは偽善者ではない、どちらかというと狂人だ。

 誰かから見た誰か、誰かから見た世界、このすべてが不調和なく描かれているのが原作だと思う。それって相当にすごいことだ。


 映画版のナウシカは映画版のナウシカで、とても良い話だと思う。だけどやっぱり私は原作の方が好きだ。残酷で、グロテスクで、救いがない。だからこそ、光がとてつもなく強くて、生命は恐ろしいほど力強い。

 希望の光とは、きっと形のないものなんだと思う。ナウシカたちが憧れていた、清浄の地。それは誰も見たことがなくて、誰の心にもある。そこを目指すことが「光」なのだとしたら、墓地の崇高な過去の亡霊は、人類の両親が生み出した呪いでしかない。なんて壮大で、尊いお話なんだ。

 でも、そもそも人は闇なんじゃないかと思った。人として生まれてきたことが業というのは、仏教かなんかで見た。闇の中で清浄の地を目指して生きること、それが光だとしたら、私たちは常に闇の中にいる。だから闇を隠す必要なんてないと思った。劣等感も、意地汚さも、無知さも、誰もが持っている。その中で、時にはダークサイドに落ちながらも、やっぱり清浄の地はあるんじゃないかと信じようとすることそのものが光ならば、誰もが光り輝いている。

 絶望という闇の中でも、生命を肯定することが、光を生むのだと思う。

 そういうことを考えていたら、塩鯖が私のことを「すごく優しい」と評する理由が分かった。塩鯖の闇はとても深くて狭くて真っ暗だ。そこから見れば、私のぼんやりとして無限にも思える闇の海は広くて明るくて慈悲深く見えるだろう。

 分かりやすく言うと、私は自分に甘いから人にも甘いってことですわ。たぶんね。

 農業を始めて良かったなあと思うことのひとつには、私はなんてちっぽけな自然の一部なんだと思えることだ。みかん農家ができることなんて、みかんの木を守って育てるという、ほんの少しのことだけだ。ほとんどは天気と四季がみかんを育ててくれる。もっと言えば、虫や細菌がいてこそ植物が育ち、雑草ひとつだって時に木を守る。人ができることなんてちっぽけだ。

 でも、そんなちっぽけな仕事が、人間にとっては膨大な時間で、膨大な手間で、私は今、それをとても充実した時間だと感じている。

 人間の時間と、自然の時間は、いつからこんなにかけ離れてしまったのだろうか。いいや、違うな。人間という生き物は、自然から見れば一時の生物に過ぎないってことなんだな。だから、とてもおおらかな気持ちになれるんだわ。

 香港のニュースを見るたびに、複雑な気持ちになる。人権となはんだろうかと考える。今の時点では、人権とは国によって扱いも考え方も違うものだ。例えばインドのカースト制度を他国が「それは人道的にどうかしら」と言ったとしても、インドという国はそういう仕組みでできているんだから他国は口出ししかできない。その国の中で、国民の力によってのみ変えられるものだ。

 だけど香港は中国でありながら中国ではなかった。この歴史のいたずらみたいなことによって、今の香港は世界中に「人権とはなんだ」と問いかけているように思う。

 しかしだ。

 中国の貧しい地域の人たちは、それとは関係なく常に楽とは言い難い暮らしをしている。香港がどうなろうと、この人たちにとってはまるで関係のない話なのだ。このギャップがとても私を不安にする。

 それはコロナの感染者のニュースを見るたびに感じる違和感と似ている。東京は日本であって日本でないのかもしれないとさえ思う。日曜討論では「とにかく経済を回そう」という話をしていたけれど、個人的には人命よりも経済を優先しているように感じた。

 でもな、その経済を回す回さないの話も、東京のことなんだよな。地方はほぼほぼ関係ない。この人たちは、何の話をしているのだろうかと思いながら聞いていたよ。

 ああ、こういうスタンスが香港と中国本土との乖離(中国本土と世界との乖離ともいえるのか?)と似ているのかもしれない。もちろん、中国本土のことなんて全く分からない。だから中国の人たちがどう考えているかなんて知る由もないけれど、今世界は大きなうねりの中にいるんだなあと思う。

 言いたいことが言える、というだけでは、自由だ平等だとは言えない。相手の話をリスペクトをもって聞くことができて、違いがあったとしてもそれを認めたうえで、本当に選びたい道を選べるようになって、本当の自由と平等の時代が来るんじゃないかな。そしてそれは、けっこう近い未来じゃないかと思う。