生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家一年目~

(仮)つまるところ、あらゆる基準は自分なのだ

 正体不明のかゆかゆに見舞われております。こんにちは。目の周りがかゆい。かゆい地獄って痛い地獄よりある意味地獄だと思う。でも痛い地獄も、痛さの限界突破までは辛すぎるから、この程度ならかゆい地獄の方がいい。いやなんの話だ。

 今日は午後からお休みなので、ゆっくりさせていただこうと思っている。

 今日も午前中は石垣のための瓦礫を運んでいた。

 こういう、本当にただの瓦礫が
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 こんな風になるんだからすごい。
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 たぶんセンスとか、センスとか、センスが必要なんだと思う。それは私にはないタイプのもの。このセンス、どこで売ってるんだろうなあ(概ね経験値、あとは空間把握能力です)。

 さて、今日はタイトル「つまるところ、あらゆる基準は自分なのだ」について書こうと思う。

 というのも、私はとってもとっても、自分でも驚くほどに愚痴っぽい。疲れてくると特に多くなるが、疲れてもなくてもぼちぼち多い。一番無害な時は本当に疲れ果てているときで、言葉数が極端に減る。自分で書いておきながら、ろくでもないなと思う。

 でも、今までの私はずっとそうやって愚痴をばらまきながら、それが社会に対するWhy?のつもりでいた。社会に対してWhy?を提示できることが、ちょっと大人だとさえ思っていた。だって、あんまりにも分かっていないと、Why?の提示すらできないんだから。

 でも、だからって愚痴が多くていいわけがない。何が良くないかって、まず一緒にいる人が不愉快な思いをする。もうこれ一点で「愚痴が多くていいことないね」と思うぐらいだ。

 じゃあどうしようか、と考える。なにせ今まで愚痴をまき散らしても許される環境だったってことだから、今なおそういう環境なわけだ。つくづく自分は幸せな奴だなあと思う。だけどそこがぬるま湯であることは、ぬるま湯育ちには気づけないことなんだよね。いや、社会人やって20年経過してるんだから気づけよって感じではあるんだけど。

 そういう点において、つくづく自分は、自分のことしか考えてないなあと思う。あ、これはいじけて言ってるんじゃなくてね。人のことも考えられる人を見て、初めて気づくことで、しかも自分のことしか考えられない人って、人のことも見てないから、気づけない巣穴に住んでるみたいな感じなのだ。

 完全に余談だけど、私は昔小説を書こうとしていてね、実際に下手な小説をいくつか書いたんだけど、なんだか扁平で平面的で、ともかくダメだった。ダメダメだった。あの頃の私は「知識も技術も足りないんだ」と思っていたけど、それは違っていた。単純に、他者を知ろうとしたことがなかったから、どれだけ心情描写を書き連ねても、全然深みも広がりも生まれなかっただけだ。それに気づいたのも、けっこう最近のことだ。それぐらい、私は自分のことしか考えていなかった。

 それはさておき、せっかく「私は自分のことしか考えない」ということが分かったんだから、まずは「そうなんだ」と飲み込んで、他者を知ろうとすることが自分を変える第一歩。第一歩が踏み出せたから、自分がぬるま湯育ちなんだと分かったわけだ。

 ここで「でもー、私の気遣いって気づかれにくい感じでー」とか「だってー、〇〇もそうだしー」とかなんとかぐだぐだ抜かさないのが第零歩。零歩超大事。ほぼ40年言い訳と愚痴に費やしてきた私が断言する。この零歩は、自分が見ている世界を180度変えるぐらいの破壊力がある。でも、この零歩が踏み出せたら後はそれほど難しくない(と思う)。

 言い訳というものは、聞いた側よりも、した側の方が、ずっと硬いしこりとして残してしまう。そのしこりは、年々重くて硬くなって、生きづらさに繋がってゆくのだ。

 というわけで、長い零歩を経て第一歩が踏み出せてる私なので、対策を考える。

 案1.言葉が口からポロリする前に、それが愚痴かどうか考える。

 ……

 案の定、案1しか出てこない。ならば、「私って口からポロリするタイプだから」とか「考える前にポロリしちゃってるし」とか言わないで、案1に全力を注ぐ。それしかない。下手に「自分を変える方法」とか「素敵な私になる方法」などとググらない。新しい自己啓発本も開かない。開いたって答えはない。だって「自分」の話をしてるんだから。

 案が1つでも出たら、それに全力を尽くす。それが一番近道だと思う。効果がないなって思ったころには、案2が出てくるだろう。だから目の前のできることを頑張るのみなのだ。

 なので、今はポロリに気を付けている。気を付けているけど、多分完璧にできてない。でもいい、忘れずに一日過ごせたから。明日はもっと意識して過ごそうと思ってる。

 今までの経験からすると、私自身が根本的に変わった時に、初めて、周りの人の反応が変わってくる。本当に変わったかどうかは、私の目から見える世界が教えてくれる。

 それでも「あなた愚痴ばっかりね」と言われることがあるかもしれない。それでもいいと思っている。どう頑張ったって、私を見張ってその都度判定してくれる人なんていない。ということは、つまるところ、あらゆる基準は自分なのだ。私の目から見える世界が満足であれば(求めているものであれば)、それでいいのだ。誰かの希望に沿わなくたって全然いいのだ。

 自分が決めたことを忘れず、といっても疲れるほど自分に厳しくするわけでもなく、ただただ「覚えておく」のが大事なのだ。そのために私はここに書いている。書いて、そして何度も読むだろう。たぶんこのブログを一番読んでるの私だからね。