生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家二年目~

身体が最大の道具

 またまた一週間過ぎている。夜はもう、眠いんだよね……。今はみかんの実が木になっていないときだから、畑整備がメインの仕事。THE土いじり。家庭菜園ぐらいの可愛い土いじりなら、心身ともに癒されそうなものだけど、みかん畑が相手だと土との勝負だ。だいたい負けながら進んでいるような感じ。だって相手は土、我々の体力などぐんぐん吸収してゆく感じだ。

 これまでの仕事は別に書くとして、今日は昨日(3月13日)の仕事のことを書く。昨日は伊予柑畑にかぶさるように伸びた大きな木を切った。

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 この木があると、木の下になっている伊予柑の日当たりがすごく悪くなる。だから伐採してしまおうということになったのだ。この写真は遠目から撮影したものだけど、かなり大きな木。夏場なら気持ちの良い日陰になるだろうなと思うぐらい、見上げるほど大きな木。

 といっても、中心付近にある。木の裏側は耕作放棄地だけど、段々畑だから重機類は入らない。たぶん、普通ならば諦めるところだ。だけど雑木も雑草も、畑にあっていいことはない。だからこの島にいる名人に頼んで、一緒に切ることになった。

 まず、耕作放棄地の方向に伸びている枝は、チルホールを使って引っ張りながら耕作放棄地に切り倒す。これもまた、簡単そうで簡単ではない。後から理解したけれど、切り始めるときには、おおよその「切り倒すための道筋」ができていないと着手してはいけないものだった。なぜなら、畑に落とさないように切り倒すためには、必要な枝や幹があるから。

 この時点でだいたいの目測を付けて、この幹は先に切り落とすと算段を付けていたのだと思う。

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 耕作放棄地に向かって伸びている枝を切り落としたら、するするっと木に登って枝の上に立ち(しかも長靴で)、切り落とす枝にロープを縛り付けて一本一本枝を落としてゆく。下から見上げる分にはさほど大きく見えない枝も、地上に下すと3mや5mクラスの大きな枝でびっくりする。

 そんなサイズの木の枝だから、畑に落ちないように工夫がいっぱいある。まず、ロープのはしを、塩鯖が引っ張ってばっさり落ちないように踏ん張っている。ロープは木の枝が落下する衝撃を和らげるために、枝の股の部分を必ず通るように切り落とされる。切り落とすときも、じわじわと折れてゆくように切る。

 それでも枝はとっても重いので、枝が落ちるたびに塩鯖は何度も吹っ飛んだそう。反対側で木の枝を受け取ろうとスタンバっていた私は気づかなかったのだけど(塩鯖、満身創痍の巻き)。

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 そんなこんなの繰り返しで、畑の真ん中にある大木を切り倒すことができた。大きな木がなくなったので、日当たりがすごくよくなった。当たり前だけど、現実で目にするとかなり感動する。

 今回のこの仕事を見せてもらって、本当にいろんなことが勉強になった。といっても、私は木に登れないし、登ったとしても手放しで立つことなどできない。怪我するのが落ちなので真似できない。そういうことじゃなくて、実現能力のあり方というのかな、どうやってやりたいことを実現するのかということ。

 私は現実での実現能力が極めて低い。というのは体力もなければ経験もないから。逆上がりやのぼり棒でさえ「ケガするからやめとこ」と避けてきた。そのせいで、なにをどこまでしたら怪我をするかということが分からない。塩鯖は私よりはずっと現実での実現能力が高いけれど、それでも彼曰く「道具を使うからできることが多い」そうだ。

 それに比べて今の60代後半(父の年代)は、何をどこまでやると怪我をするかよく知っていると思う。それは何度も木から落ちたり、小刀で手を切ったりして、こうしたら危ないということを体で知っているからだと思う(小刀が出てきたのは、父がもんじゃ焼き用のコテを、竹から小刀一本で作ったことがあるからだ。かなり器用なんだなあと思った)。

 私はみかんの木に登ることもあるけれど(うちのみかんの木は樹高が低いので上ってもそれほど危険ではない)、体重をかけたら折れそうな枝と、実際に折れる枝と、意外と折れない枝がある。それは経験で見分ける。体重をかけた瞬間に「これはダメなやつ」と分かるのだ。それは、過去に何度か枝を折って落ちたこともあるし、つかまって折れたこともある。そういう経験が、危険かそうでないかを分けている。

 でも、私の経験など比にならないほどの実体験を、父の年代はみんな持っている。だから、「こうしたいな」が浮かんできたとして、どうしたらそれが実現できるかという引き出しが、一気にたくさん開くのだと思う。それも、道具を使うパターン、身体ひとつでやるパターン、人を頼むパターン、一人でやるパターンのいくつもの引き出しが。

 私たちの40代ぐらいは、昭和といえど道具がたくさんあった。だから道具を使って実現することはけっこうできる方じゃないかと思う(私はできんが)。それは「道具があればできる」であって、身体一つで実現するのとはちょっと違う。

 とはいえ、身体一つでできるからすごい、偉い、ということはない。道具を使ったって全然いいんだ。大事なのは「自分の、現実の実現能力がどれぐらいあるのか」を知っているかどうかだと思う。

 そういう点で、私は全く何もできない。体力もない。だからせめて体力はつけようと思って、スクワットの30日チャレンジが二周目突入している。

 どんなに憧れようと、いきなり父のように器用にもならないし、塩鯖のように道具を使いこなせる器用さも持てない。だからその器用さや実現能力を身に着けるために、まず体力をつけようと思う。そうすることが、私の可能性を広げるのだと思う(ざっと書いたので後で書き直す可能性あり)。