生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家二年目~

脱スピしようという話

 今日はね、チャンスなんですよ。2日目の雨だから!(まとめて書いてやる!!)

 今回は脱スピの話。といっても、完全にスピリチュアルなんて信じないってなったわけではなくて、というか見えないものなんてあるし、いるし、それはそれで信じてるけど、そればっかりにスポット当てるのやめようと思うようになったって話。

 占星学を勉強するようになって、心理学とかも入ってきて、なるほどーそうだったのかーと思うことがたくさんあった学びのグループだったけれど、6月の初め頃に抜けた。理由は、ずっと同じことを繰り返しているように感じたから。

 スタートは「どうして自分は思い通りに生きられないのだろう」というところから始まったけれど、結局のところ「思い通りに生きられないのは自分がそうしているから」というところに行き着く。じゃあなぜ「思い通りに生きられないのか」を探究すると、幼い頃の経験や記憶に行き着く。

  幼い頃の経験や記憶というのは、速い話が「思い違い」や「誤解」だ。幼いがために親の気持ちを理解することができず、短絡的に「言いたいことを言うと嫌われるんだ」と思っちゃったりするって話だ。

 このように簡単に書いてしまうと、なんだ簡単なことじゃないかと思うかもしれないが、これが結構長い間人を苦しめていたりする。言いたいことが言えないと、溜めなくてもいいストレスを溜めちゃうことになるし、自分は嫌われてるとか、空気が読めないとダメだとか、人の顔色が気になって仕方ないとか、そういう副作用みたいなものでも苦しめられるしね。それが「思い通りに生きられない理由」だっていうこと。

 というのがグループでの学びのテーマだった。で、4年目に入って、もうお腹いっぱいかなっていう気になったから抜けた。

 抜けようという気になった理由には、農業に従事しているという現実も関係していると思う。

 何せ農業は現実、体を使ってなんぼだ。できるとかできないとか、できるかもしれないけど自信がないとか、うまくできないかもしれないけど頑張ったらできるかも、なんて中途半端なことは一切いらない。失敗しながらも上手にやろうと努力する、それのみだ。

 だからしみじみ思い出す。あーだこーだとごねていた時期、私はとっても暇だったんだなって(やや暴言ですみません)。

 それと同時に、精神論を延々語るより、現実で何か作り上げたり、成し遂げたりする方が、いくらも確かだなと思った。いや、これは精神論を否定するわけではない。わけではないんだけど、精神論だけでは足りないということが、よくよく理解できたという話だ。

 でね、私は思う。SNSやインターネットを介しての何かって、現実とは言い難いことなんじゃないかって。これは私が古い人間だからそう思うのかもしれない。でも、うーん、やっぱりどこまでもバーチャルなんじゃないかと思う。

 人って、どこまでも完璧ではないと思う。だけどある一面だけなら完璧にやることはできる。その一面だけを見せ続けることができるのはバーチャルだと思う。というか、私はそう思ってSNSも見てる。

 いくら精神面を鍛えても、SNSで活動しても、どこまでも物理的な世界での活動とはちょっと違う気がしてしまう。そうした活動から現実が動き出すってことも往々にしてあるけれど、なんというかなあ、今は本を出すとか、メディアに出るとかも、消費の対象であって、すっごく「もの」って感じがしない、いつでも消えてしまう絵空事みたいに思えてしまうのだ。

 これは多分、何十年もかけて大きくなったみかんの木を見て、触って、自分たちも一年目の木を植えて、育っている過程を全て見ていて、手入れしたり収穫したり、そうすると物理的に体が疲れて果てて寝ちゃう日々だったり、そういう暮らしをしているから思うことだと思う。

 そういう変化もあって、やろうと思っていたブログ作成も頓挫しているし、講師としての活動も頓挫している。頓挫したまま未着手になるのかもしれない。いや、それはちょっと惜しいので、やっぱり何かするだろうけど、それでも今はちょっと先送りしたいなと思っている。

 あと、陰謀論とか反ワクチン、無農薬も、何度も聞いていると疲れてくる。多様性の時代にはわかりあう努力も必要だと言われるけれど、限りある時間をわかりあうために使うかどうかは、その人の人生の優先順位に準じられるのだろうと思う。私は今のところわかりあうための時間にそれほど多くを割くことはできないなと思っている。