プロフェッショナル 夏井いつき
愛媛県が誇る俳句ブームの立役者、夏井いつきさんのプロフェッショナルを見た。
番組の序盤に、夏井いつきさんが先生だったころのエピソードが語られる。どうしようもない問題児を前に「思いを言葉にすることができないから、手が出るんだ」と気づいたという。
最近、思いを言葉にすることの難しさについてひしひしと感じる。思っていること、感じたことを言葉にすることが「思いを言葉にする」ということではないからだ。いや、もしそうだとしてもなかなか難しいのだ、自分が何を思い、なにを感じているのかを、正確に把握するということは。
例えば本を読んで、あるいは映画を見て、何かを思ったり感じたりするとしよう。その瞬間の思いをありのまま言葉にしても、おそらく多くの人にはあなたが見て感じ入った瞬間のみずみずしさ、心の震え方やその感覚までもを受け取ることができない。
だからといって今の自分の状況を語ろうものなら、感覚の水しぶきが乾いてしまう。文章は長ければいい、細かければいい、というものではない。
ではどうすればいいのか。その答えを、この番組から感じ取った気がする。
とにかく真っすぐに、真っすぐに、言葉と向き合うのだ。
夏井いつきさんは、応募されたすべての句を見ている。そしてそこに書かれた5・7・5から、作者が伝えようとしていることを全身全霊で汲み取ろうとしている。たった17文字からなる心象スケッチから、作者の見た風景を受け取ろうとしている。
こんなにも、全身全霊で言葉にぶち当たっていく人を見たことがない。でもここまでやるから、彼女の句に感動し、自分も俳句を作ってみようと思えたり、また作った句を読んでもらいたいと思ったりするのだろう。
同時にその姿勢は、ご自身で句を作る時もそうだ。あの日あの瞬間の感覚を、どんな言葉に閉じ込めれば一番その風景に近づけるのか、ひたすら感覚に正直に、言葉に惑わされないように、まっすぐに俳句を作ってらした。
あの姿勢は丸ごとすべて感動的だった。
ここまでやるから「すごい」んだと思った。
言葉とは、誰かと思いをやり取りするためのものだと思っている。でも私のように、自分のために思いを言葉にする人もいるだろう。それは自分のためなのかというと、正確には違うような気がしている。自分のための日記とは、今の自分のためではなく、未来の自分(今の自分とは別の自分)のために書いているのだと思っている。なんていうかな、言葉に今を詰め込んだタイムカプセルみたいな感じかな。3年後、5年後、読み返した時に今の私がよみがえるように。
このように、言葉とは誰かと思いをやり取りするためのものではあるのだけど、それは字面のみの話ではなく、空気感まで丸ごと含めて届けることが役割なのだと思う。決して、書き手側がコントロールするものではない。読んだ人が心を震わせ、なにか言葉に出して言いたくなるような、そんな文章を、私は書きたいと思った次第である。